頑な鰯 "オマルの日記" 2026年7月14日

オマルの日記
オマルの日記
オマル・ハマド,
最所篤子
読み進める途中、何度も自分のことを恥じた。重い話だからと本を置き、ストレスなく読めるエッセイに手を伸ばした。食事の前には読むことを控えた。「あなたの気分を害したらごめんなさい」と繰り返すオマルの言葉が重くのしかかる。彼が訴える通り、SNSに流れるどんな言葉も、どんな動画や写真であっても、当事者のリアリティには到底及ばない。それなのに、その氷山の一角すら直視できない自分がいる。見たくない現実を半ば本能的に遠ざける。書いてあることを想像しようとしてもできない。そのことが心から恥ずかしい。こう記していることすらも偽善のように思えてくる。 地獄とは、その苦しみが誰にも届かないこと。国際社会に見放されたガザ、何の罪もない、ただ自分の愛する故郷で幸せに暮らしたいだけのガザの人たちに対して、考えうるすべての手を尽くして暴力の極みを突き進むシオニスト・イスラエル。想像すらできないほどのパレスチナの人々の絶望は、こうしている今もなお彼らを覆い続けている。 印象的だったオマルの言葉からひとつ抜粋する。 "この世界には、ガザのジェノサイドの規模を受け止め、どうにかしようという心の余裕がない。資本主義によって、国家も人々も利己主義の中に追い込まれ、集団としての気づきが育たないのだ。かつて僕は、世界は真実と正義のために革命に立ち上がると信じていたが、それは間違いだった。そして、この世界で権力を持つ者は、 ジェノサイドを実行し、僕らを焼き、僕ら全員を破壊している張本人とイコールだ。" 偶然併読していた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか(三宅香帆)』の中で、新自由主義についての記述があった。「変えられるもの」としての政治は過去のものとなり、「変えられないもの」としての経済の時代になった。政治も経済と同じく、自分の力では変えられないものとして扱われはじめる。その波を読んで乗ることの価値が大きくなる。新自由主義では、「行動」に焦点を当てた自己啓発に端を発し、自分以外の文脈をノイズと見なして取り入れずに排除した上で、コントローラブルな「自己の行動」のみにフォーカスしていくべきとされた。家族的な会社文化は衰退し、他者との繋がりが希薄化していく中で「自己責任」の意識が多くの人々において内面化し、結果として自分を追い詰め、燃え尽きることとなる。 資本主義、新自由主義社会の中で、人を気にかけることができない。「集団としての気づきが育たない」というオマルの指摘は的を得ている。自己責任の意識が内面化された人々は、利己主義に走り、他人を思いやる余裕がなくなった。突きつけられた理不尽に抵抗し続ける人がいると知っていても、多くの現代人の中に「変えられるものとしての政治」はもうないのである。 ただ、そんな現代人が明らかに見逃している点は、人道危機が続いても国際社会は助けてくれないという状況が、自分の身に振り注ぐ可能性があるということだ。いたって普通の生活をしていたガザの人たちが、ある日突然その日常を奪われ、虐殺される。世界に蔓延る強大な権力者がひとたび矛先を向ければ、抵抗する手段を持たない人間はひとたまりもない。この状況を変えないと、さらなる悲劇が繰り返される。その連鎖を止めなければならない。そして我々にはその義務がある。戦火に晒されず平穏に暮らしている人こそが、生を脅かされていない人こそが、状況を変えられるチャンスを手にできる。戦禍にいる人に与えられるチャンスは限りなく少ない。今こそ本質を見極め、考え、行動すべきだ。それが誰かにとって遅すぎたとしても、また他の誰かにとって遅すぎないように最善を尽くすのだ。 『オマルの日記』がたくさんの人に読まれればよいと思う。地道かもしれない、手遅れになるかもしれないが、訳者が記しているようにまずは知ることからしか始まらない。資本主義、新自由主義の中で忘れていた「集団としての気づき」を、市民どうしの連帯を思い出すのだ。 最後になりましたが、この本を店頭で勧めてくれた「一乗寺BOOK APARTMENT」の店主である北本一郎さんに、心より感謝します。大切な本に出会えました。少し遠方ではありますがまたお店に伺い、感想を直接お伝えできたらと考えています。
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