
ふみぽん
@fumipon30
2026年7月14日
イン・ザ・メガチャーチ
朝井リョウ
読み終わった
自分の物語を取り戻したくなる本だった。
読み終わってから数日、ずっと引きずっている。気持ちの区切りをつけるために書く。超・主観的に。
全体を通して良かったのは、言語化の面白さ。言葉の選び方、並べ方で、動画をスローモーションで見るようにじっくりとその描写を感じられる文章。画素数の高い文章。かゆいところに手が届くようで読んでいて気持ちよくなってしまう。朝井リョウの文体が好きなんだと気づいた。
人生、シラフで生きるには長すぎる。
そう言っていた朝井リョウのことを、読みながら何度も思い出した。だから人は酔う。推しに、界隈に、物語に。その構造を、ここまでの解像度で言葉にされたのは初めてかもしれない。
シラフではいられない世の中で、あえて視野を狭めて何かに熱中することの楽しさ。それは同時に、浅はかさにも、取り返しのつかない恥にもなりうるし、究極、罪にもなりうる。
この小説には大事なことがたくさん詰まっていろんな切り口から語ることができる。
ファンダムの話でありながら、宗教や政治の熱狂と地続きだし、40代男性の生きづらさと孤独も語られる。何かを熱狂的に信じることでしか自分を保てない人の姿は、推し活にも、支持政党にも、宗教にも、同じかたちであらわれる。
読みながら、若林正恭と星野源の「LIGHTHOUSE」を思い出していた。あの二人がやっていたのは、物語に頼らずに、ただ対話することだったんじゃないか。孤独を何かで埋めるんじゃなく、話すことでならしていく。この小説が描く熱狂の、静かな対岸にあるような、そんな気がして尊いものをみていたんだなと思った。
◯私は、誰かの物語に乗っかって生きている
私は誰かの物語に乗っかることで、なんとか生きさせてもらっている。恋愛リアリティーショーがあれだけ流行るのも、そりゃそうだよねと思う。自分の人生の主人公をやるのはしんどい。でも他人の恋愛なら、安全な場所から熱中できる。
だから私が一番意識をもっていかれたのは、隅川のすみちゃんだった。
他人の物語に乗ろうとしたけれども乗り切れない人。熱中しきれず、どこかで現実に引き戻されてしまう人。ああはなりたくない、と思いながら読んだ。でも、こうなるしかなかったんだとも思う。一度、使い切るしかなかったんだ。
それから、今までは自分のことが好きな人でとにかく自分のことばかり考えている人のこと(それを感じ取れてしまう人のこと)をどこかでダサいと感じてしまう瞬間があった。でも、この本を読み終わったらそれが一番ヘルシーなのではと思った。だってそれは、自分自身を信じるということだから。自分の中に、自分だけのチャーチを持つということだから。
それを信じられたら、人生は怖くない。社会とのすり合わせは必要だし、どうしたって揺らぐから問い続けなければいけないけれど
どこかでずっと、羨ましかった。物語に熱中できる人のことが。他人のものさしではかった正解に寄りかかって安心するのではなく、自分が感じた価値を信じられる人のことが。
◯これはバッドエンド?
ラストシーンの話をしたい(具体的には書かないけど、雰囲気も知りたくない人は飛ばしてください)。
陰謀論の演説と、渋谷に出した推し広告を見るために集まった楽しそうなファンダムたちが、同じ街で混ざり合ってカオスになる。それぞれが、それぞれの正義を振りかざしながら。
すみちゃんで重なり二人がオーバーラップする構成に痺れながら、これはバッドエンドなのか、と思う。この話は、私たちの生活と地続きすぎる。行き着く先がこの小説のとおりなら恐ろしい。小説だからできることだけれど、あまりに地続きで怖かった。
このシーンから遡って全部を設計したんじゃないかと思ってしまうほど、絵が浮かんだ。
◯物語じゃなくても、つながれるのか
じゃあどうすればいいんだろう、と考える。
物語で強くつながるか、物語なしで孤独でいるか。その二択しかないんだろうか。
思ったのは、もっと手前にある「生活」でつながる道があるのではということ。作中でアイドルの子が言ったつながりへの渇望から思った。好きなものでつながるのではなく、ただ同じ屋根の下で洗濯物を干して、同じごはんを食べる。それがいいんじゃないかと思う。シェアハウスとか共同生活が、この世にもっと増えたら?孤独を、なかば強制的にならしてくれる場所はニーズがある気がする。
私の身近にも、通信制の高校生が集まって共同生活と仕事をするワークキャンプという取り組みがあっ生活で人とつながる場が、ちゃんと機能している。
◯私も、メガチャーチの中にいた
私も今、思いっきり界隈の中にいる。
私はローカルに生きている。ここには「みんなでこのまちをよくしていこう」という思いでつながる仲間がいる。このまちがなくならないように、楽しくあれるように、未来に良いものを残せるように、みんな必死で、誰も諦めていない。その物語に共鳴した人たちの集まりだから、ここでは孤独でも、孤独じゃない。仲間がいる。
構造としては完全にメガチャーチだ。「このまちをもっとおもしろく」という物語を共有する、信仰共同体。だからそのまちに居心地の良さを感じるのか、と思ったら。
でも、決定的に違うところが二つある気がしている。
ひとつは、物語と生活が一致していること。推しは画面の向こうにいるけど、まちは毎日そこにある。洗濯物を干す場所と、信じる対象が同じ。
もうひとつは、乗っかる物語じゃなくて、共同で書いている物語だということ。誰かが仕掛けた熱狂を消費するんじゃなく、自分の手でまちが変わる手応えがある。自分の中のメガチャーチと、みんなのメガチャーチが、ここでは両立している。
◯生まれ変わったら風になりたい、と言った人
最後に、こないだごはんを食べた年上のお姉さんの話をしたい。
その方は私から見て自分にはないフラットさを持つスーパーすごい人で、視野が狭くなく、いつも公平。自己表現もしない。何かを信じているわけでもなければ、誰かの物語に乗っかっているわけでもない。フラットで、偏りがない。
「何のために生きてるんだろうね。でも、洗濯物が天気のいい日に干せたとかで幸せを感じられる人だからな、私」と言う。生まれ変わったら風になりたいと言う。人間はもう、いいかなと笑う。
物語を仕掛ける人がいて、乗っかる人がいて、乗り切れない人がいて、まちごと物語を書いている人たちがいて、そして物語そのものを必要としない人がいる。この小説のどの座標にもいないその方のことを、読み終わってからずっと考えている。
そんな境地に辿り着くには、私はあと何度、人間を生きればいいんだろうか。
私の教会はどこだろう。私は今、どこにいるのだろう。

