
yomitaos
@chsy7188
2026年7月17日
文庫版 死ねばいいのに
京極夏彦
読み終わった
@ 自宅
昨日映画版を観てきて、原作を読みたくなったため再読。会話劇の本作から極限まで会話を削って、成り立たせるのに必要な最小限の言葉だけを使って構成されていた映画だったことが改めて分かる。渡会の「人であってあらざるもの=妖怪」っぽさが主演の奈緒によって上手く表現されていたし、なにより原作では一度も出てこない鹿島亜佐美(演・伊東蒼)をビジュアルとして観れたのが嬉しい。亜佐美の分からなさが加速する。渡会がこの人のことを知りたくて嗅ぎ回るのはよく分かる。私も亜佐美についてもっと知りたい。
映画単体で観ると、背景情報が足りなさすぎて「理解」以前に「把握」ができない問題があると思った。原作における、渡会の対話者が自分の話しかしないという言葉への納得感がないのが大きな問題かなと。(映画ではそれほどテキストボリュームがないので)
渡会という妖怪、または鏡によって対話者が自ら追い詰められていく様が原作の見どころのひとつだが、そこが映画では弱かったように思う。逆にそれが効果を発揮したのは、亜佐美の母のシーン。映画では5分もないくらいに圧縮されていたのだが、演じる田畑智子の薄っぺらい号泣模様を淡々と映すだけで、母であるこの人が一番亜佐美のことを知らないのが分かるように演出されていて見事だと感じた。(田畑智子の演技が凄いから薄っぺらさが伝わるのであって、下手だから薄っぺらいというわけではない。断じて。)
はじめて原作を読んだのは15年前で、その頃の自分は渡会に何も反論できなかった。彼が放つ「正論」は強固で、太刀打ちできなかった。今の自分なら対等に渡り合えると思って読み直したのだが、やはり何も言い返せなかった。まったく成長していない。そもそもいい大人が成長なんてしないと思っているけれど。
「死ねばいいのに」って、そう思える相手が目の前にいないから言える言葉でもある。例えば現在の首相や与党の人間に対して私は「死ねばいいのに」と気軽に口に出すが、目の前にいたとしたら流石に躊躇する。むしろ気軽に使うから許される言葉で、本気で使われるべきではないのかもしれない。
渡会は対話者を目の前にして「死ねばいいのに」とつぶやく。別に相手に対して呪詛の念があるわけではない。「そんなに今の人生が嫌だというなら死ねば?」という、気軽な気持ちで口に出された言葉だ。でも大抵の人は「嫌だ、死にたくはない」という。そういうものだろう。主体的に、能動的に死にたい人はそう多くない。
渡会もそう思っているから、簡単に「死ねばいいのに」と口に出す。けれど亜佐美は「死にたい」と言った。「殺して」ではない。
今の人生が幸せだという彼女は「死にたい」と言う。今の人生が嫌だという人たちは「死にたくない」と言う。なんだか矛盾している気がする。渡会が亜佐美の分からなさに途惑うように、読者も人の分からなさに途惑う。
「相手の気持ちになって考えなさい」などと簡単に言うが、相手が本当はどう思っているかなんてぜったいに分からない。分かった気になるだけだ。もしくは、そう決めつけるだけ。
渡会は事実を求めているのであって、真実にはさして興味がないんじゃないかと思った。真実は人の数だけある。亜佐美についてそれぞれが語ることは、作られた真実だ。人は主観によって、捻じ曲げて構築する。渡会は亜佐美について様々な人から話を聞くなかで、「それは違うんじゃねーの?」と厳しく突きつける。
渡会は鏡と先ほど言ったが、ただ反射しているわけではないのかもしれない。言うなればプリズムか。真実の数だけ事実が屈折して乱反射する。結果、ほんらいの亜佐美の姿が見えなくなる。それを渡会が集約していっている。私にはそのように見えた。
渡会が「君は人殺しだ」と突きつけられる最後、彼は安心したように目を伏せる。なぜなら、それは事実だからだ。何も屈折していない。誰かの歪んだ真実でもない。渡会はとても「まっとう」な人間だと思う。
