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@chsy7188
居場所を増やすために始めてみました。居心地のよい場所にしたいですね。
  • 2026年7月7日
    広告都市・東京増補
    広告畑で長く働いていながら、どうしても広告が好きになれない、web広告に至っては産業廃棄物だとすら考えている。 あらためて広告の気持ち悪さに抗っていくために、名著と呼ばれる本で学ぼうと手に取ったのがこの本。北田暁大の本はどれも面白いと思う。 地元京都にいたころはほとんど感じず、東京に拠点を移してから如実に感じるようになったことに、「なんでこんなに広告が多いんだ…!」という怒りがある。個別具体的な広告が多いということもあるが、それ以上に街そのものから広告臭がすることに辟易していた。 この本で、70年代に西武-パルコが実験的に行った広告=都市の方法論が語られる。なるほど、この方法論が今も残り、また続けられていることで、都市そのものから広告臭がするようになっているわけだ。街を歩くだけで常に消費者として見られる気持ち悪さ、ようやく納得した。
  • 2026年7月4日
    木挽町のあだ討ち
    人情ものは苦手だ。現実は非常なのに、あまりに理想的すぎて鼻じらむ。だったのだが、この本でその解釈を改める必要が出てきた。 それは登場人物すべてに矜持を感じたからだと思う。思いつきの善行ではなく、登場人物それぞれの人生から導き出される結果として人情味ある手助けが行われる。そこへの納得感がある。 単なる仇討ちなら、他にいくらでも作品はある。仇を打つ理由への納得感を醸成することでカタルシスを生むエンタメも多い。この作品はそんなレベルで止まらない。タイトルの「仇」が「あだ」と平仮名になっていることにも意味がある。 この本の凄みは、視野を広げてくれるところにあると思う。その悩みや惑いは、知る世間が狭過ぎることに原因があるのでは?と問いかけてくる。生きるのを辛くしているのは、ただの思い込みなのかもしれない。これは作中の時代に限らず、現代でも変わらない、普遍的なテーマだと思う。
  • 2026年7月3日
    ホルモー燦燦
    ホルモー燦燦
    京都生まれ・京都育ちの人間として、「鴨川ホルモー」はもはや後世に伝承すべき物語だと思っている。自分も鴨川デルタでオニを操り、敗北の末に「ホルモォーーーー!」と絶叫した存在しない記憶がある。その完結編を、2026年になってまとまって読めることが嬉しい。 気になっていたことがある。京都でホルモーを経験した大学生たちは必ずしも京都で生涯を終えるわけではない。東京で就職したりもするだろう。となれば、京都外でもホルモーについて語らう機会もあるはず。そういえば、地方でホルモーが行われている可能性はないのか? あったのだ、「東京ホルモー」が。京都人にとって、東京は地方だからね。京都とは違う形式で行われるホルモー。そこで戦う、本編の後輩にあたる人たち。その人がホルモーと関わっていった結果、行く末が気になっていた本編の登場人物たちと意外な縁を繋ぐ。もうそれだけで、お腹がいっぱいになった。 過度にシリーズ展開していかなかった本作は、きれいに幕を閉じた。これでいいのだ。
  • 2026年7月2日
    黒牢城
    黒牢城
    黒沢清監督の映画版を観て、あらためて原作を読み直したく文庫版を購入。時代ものは、ただそれだけで読み手にリテラシーを要求してしまうものだが、これは違う。骨格はミステリーで、安楽椅子探偵が謎を解くという流れも、ある意味で慣れ親しんだ構造。トリック自体もそう驚くものではない。というか、そこに面白さがあるわけではない。 あえて書くならホワイダニット系の物語で、いわゆる黒幕にあたる人物がなぜこういった行動を取ったのかが面白く、しかも普遍性がある。解説でマライさんも言っているとおり、ナチスドイツの殺戮や文化大革命など後の世界で起こる出来事と地続きになっている。武家の矜持は現代人に理解できなくても、マチヅモが原因で起こる事象に置き換えれば、そう大きな違いはない。 作中で荒木村重がつぶやく、信長は殺し過ぎるという言葉が重い。あらためて織田信長という人物が生涯に手を掛けた人間の数を考えてみると、越前一向一揆殲で14,000人、天正伊賀の乱の30,000人、比叡山焼き討ちで3,000人程度とされているから、これだけでも50,000人弱。日本史上、これほど人を殺した人間はいないのではないか。 こんな化け物に仕えるというのが、どういうことなのか、何を意味するのか。冷静に考えてみると、理解が追いつかない。 映画を観てから、ずっとこの作品のことを考えている。自分にとって、死ぬまで忘れないであろう、心臓に三間鑓を打ち込まれたような傑作だ。
  • 2026年7月1日
    直木賞候補作全部読んで予想・分析してみました: 第163回~172回
  • 2026年7月1日
    星野源論
    星野源論
  • 2026年6月30日
    首
  • 2026年6月29日
    怪談小説という名の小説怪談
  • 2026年6月27日
    戦国武将伝 西日本編
  • 2026年6月17日
    テロル
    テロル
    「どうせ日本は終わるのだ」という帯文に、ネトウヨや日本礼賛の自称愛国者たちは激怒するだろう。世界から愛され、尊敬される日本が終わるとは失礼すぎる!…とブチギレている様が思い浮かぶ。 大袈裟に聞こえるかもしれないが、ここ20年ほどの政治を見ていれば、亡国の一途を辿っていることは大抵の人が理解していると思うし、元総理大臣が銃撃されても何も変わらなかった(むしろ更に悪化した)現状から、もう日本はダメなんだろうという諦めムードが国を覆っている。 そんな中で投下されたこの本は劇薬だ。ほぼ日本の現状とニアリーイコールで描かれているこの世界で、銃撃犯はある種の信仰対象として描かれる。正直なところ、自分も同じような気持ちを抱いたことがある。殺人を称賛する気持ちは毛頭無いが、戦後最悪の政治家を葬った彼に惹かれるところは確かにあったから。 個人的に彼はテロリストではないと考えている。定義の曖昧なこの言葉を当てはめるべきなのは、ヘイトスピーチを繰り返す陰謀論者や、デマで塗り固めたweb記事やYouTube動画で金稼ぎをしている連中のほうではないか。この本ではそのような解釈が仄めかされる。私もそう思う。直接誰かの命を奪っているわけではないが、日本を唾棄すべきゴミクズにまで貶めるそのふるまいは、れっきとした「テロリストしぐさ」だろう。 しかし奴らがテロリストとして検挙されることはないだろう。なぜなら政権与党みずからがヘイトを吐き、動画作成を指示し、SNSで印象操作を積極的に行なっているのだから。いわばグルなのだ。こんな存在悪が束になってかかってきたら、良識ある一般人は飲み込まれる他ない。外国人差別発言を平気で垂れ流すまで、あと一歩だ。 日本がそんな絶望的な亡国であることを、その現状をまじめに受け止めること。そこからはじめるしかない。この本は日本が題材のディストピア小説ではない。日本の現状を嘘偽りなく描いた現代小説である。 テロルを読んで絶望しよう。そして、この物語よりほんの少しでもマシな世界にしよう。
  • 2026年6月14日
    ファイア・ドーム(上)
    今という時代が、人の「参加したい」という欲求を叶えるのに適していることは、大抵の人が理解していると思う。テクノロジーが後押しすることで、私たちはコンテンツ制作に簡単に関われるようになった。webメディアにおけるコメント欄もそうだし、共創型を謳うビジネスも多い。何よりSNSの存在が大きい。 手軽に参加できるようになって、社会は良くなっただろうか。なぜ人が何かに参加したいのかというと、そこには承認が強く関わってくると思う。自分が知る人や、住んでいる場所に関わる事件があると、自分はそれについて語れる気がしてくる。意味があるかはどうでもいい。自分には参加する権利があるから。発言した内容が人を傷つけるか、波紋を呼ぶかなんてどうでもいい。解釈は自由だ。 そこに悪意はない。むしろ善意かもしれない。だが、火のないところにわざわざ立てた火が、あっという間に山火事になってしまうことがある。対象となった人や地域にとっては大変だが、対岸の火事に大抵の人は興味を持たない。 隔離されたエリアに雪を降らせる美しいスノードームのようなとある地域を、火の粉が舞い散るファイアドームに変える。きっかけは、噂。参加したいという人たちの薄い欲望から生まれた噂が地獄を生む。 噂は太古のメディアだ。当たり前だが、インターネットがない時代から存在する。メディアが本当のことを報道しないなんていう嘆きも昔からあって、そんな時代にも人口を介して真実を求める噂は広がっていた。 この物語に出てくる複数の事件は、インターネット以前・以後の両方がある。しかし、参加したいという人の欲望から生まれた噂の広がりが真実を覆い隠してしまう様は同じだ。欲望を喚起し加速させるインターネットがあろうとなかろうと、「噂が真実を歪める」という事実は変わらない。 語り手として幾人もの人が出てくるが、誰もがみんな歪められた噂に抵抗し、闘い抜いていく様に心を動かされる。必ずしも打ち勝つのではなく、折り合いをつけられる程度で止まる人もいる。カタルシスはあまりない。でも、それが実際のところなんだろうとも思う。人は急に変わらない。変わらない社会で生きるのは息苦しいが、それでも前を向いて歩く語り手たちの姿は眩い。 最後に、もはや信用できないメディアの代表格となった小学館から、この本が出版されているのも興味深い(文芸誌の連載であることは理解している)。別に担当を責めるつもりはないが、社会的意義のある強度ある物語を出すなら、それに相応しい会社であろうという矜持があってほしい。小学館が猛省しないのなら、この本の価値が下がる。今年一番おもしろいと思ったこの本に最大の栄誉を与えてほしいからこそ、小学館は生まれ変わってもらいたい。
  • 2026年6月2日
    ファミリーランド
    テクノロジーがどれだけ発達しても、家族の在り方は変わらない…のか? あまりに強固な家族像という幻想がある。家族とはこうあるべき、といったような。いつまでたっても個人社会にならないこの国では、未来永劫この呪縛から逃れられないかもしれない。澤村伊智のSFホラー短編集たるこの本を読んで、あらためて絶望した。 テクノロジーが家族にもたらす最も害悪な機能は「監視」だと思う。これは収められたどの短編にも、ある程度共通している要素だ。健康状態に気を配り、普段と違う行動をしているようならアラートが鳴る。これは管理したい側からすると最高のシステムだろう。つまり、権力側目線のサービスだ。監視される側の人権は蔑ろにされる。 この本が実感をもって恐怖を演出できるのは、すでにこの本で書かれているような社会になってきているからだろう。そしてそれに苦痛を感じている人がマイノリティでは無くなってきていることもある。ユートピアとディストピアはほぼ同義だと思っているが、描かれている社会はどっちでもあるんだろう。これをユートピアと考える人とは仲良くなれない。
  • 2026年6月1日
    アウターQ  弱小Webマガジンの事件簿
    本作の主人公が働いているのはwebメディア編集部で、短編の回を重ねるごとにライターとして「成長」していく様が描かれる。ここでいうところの成長とは、数字が取れるという意味だ。それ以外にない。 上司にあたる人物から、IT系企業がコンテンツ事業に乗り出す際、とにかくコスパよく制作ができる対象を選びがちだから気をつけろという意味合いの言葉を掛けられるのだが、これが結末に大きく関わってくる。 webメディアはつくりっぱなしで、後追いをしない。その場の閲覧数が増えればそれが正義で、それにより苦しむ人がいても、救われる人が増えるなら仕方ないと考える。これは私が長らくwebメディア業界にいるからよく分かる。徹底的に無責任なのだ。 本短編集では、そんなwebメディアを中心に数々の事件が起こる。webメディアがあることで救われた人がいるのを言い訳に、なんだか良いふうにまとめられた話もある。これも業界ではありがちだ。しかしもちろんこれは伏線。全webメディアライターが目を逸らしたく現実で幕は下ろされる。 結末を読めば分かるが、澤村伊智はwebメディアという構造の闇を全部わかった上でこれを書いている。業界理解が深くて恐ろしい。もうwebメディアやめたい。
  • 2026年5月29日
    おまえレベルの話はしてない
    スポーツの世界を憎んでいる。勝利に導いた努力が賞賛され、それが会社や学校でも援用され、まるでプロスポーツ選手のように考えて生きることの価値を疑わない。そういった人たちが見ているのは、メディアで取り上げられるような選手だけ。勝者の影に膨大な数の死者がおり、大抵の人はそちらに含められることは分かっているはず。なのに、その生存バイアスを見なかったことにする。そういった人間も、社会も大嫌いだ。 この小説は敗者の物語だ。夢を諦める。でも自分では諦めきれなくて、外部に諦める理由を見つけ出そうとしている人たちの話だ。うまく諦められ、社会で活躍することができた人も、一度夢見た姿を諦めきれずにうなされ続ける。そんな人の物語でもある。つまりは、有象無象の、私たち読者の物語でもある。 棋士と言えば、羽生善治や藤井聡太といった有名どころがメディアではよく取り上げられる。AIの文脈で、にわかにブームが起こったりもする。一握りの人しかプロにはなれないのに、学生生活〜20代の大半を将棋に費やさなければならない。失敗しても、誰も責任は取ってくれない。これはスポーツでも同じだが、私には地獄への道にしか思えない。 そんな地獄の中で育まれる青春が、この物語だ。私は少しも共感できないが、ここには確かに青春が描かれている。青春とは甘酸っぱいものではなく、苦々しくドロドロとした粘液のようなものであるという、本質をついているように思った。
  • 2026年5月26日
    どうすればよかったか?
    あったことを無かったことにする。するとあら不思議、問題は雲散霧消する。だって、そんな問題自体が無かったんだから。 なんだか日本の政治家について述べているみたいだが、そうじゃない。いち家庭の話だ。規模の大小を問わず、大抵の問題が解決しないのは、その問題があることを認めない、その態度が生み出している。思い当たる節が多すぎて、胃が痛くなる。おそらく、思い当たらない人はいないだろう。そんな邪な生き物が人間というものなのだから。 家族が統合失調症になる。この国では、ただそれだけが理由で村八分にされたり、会社や学校でいじめられたりする。著者の姉が発症したと思われる1983年当時に比べたら病気への理解はマシになっているかもしれないが、かといって差別がなくなったわけではない。 だとしたら、財力と体力が許す限り、ひたすらに隠し通そうとするかもしれない。もっとひどい場合には、死に至らしめてしまう可能性もある(実際にそんな事件はある)。 素早いレスポンスが好まれるこの時代、「どうすればよかったか?」という問いに即答する人も多いだろう。私としては、即答できるやつはロクなもんじゃないと思う。これはそもそも、答えのない問題だから。人の数だけ答えがあるとも言える。 最近流行りの言葉で言えば、ネガティブケイパビリティに耐えるというところだろうか。確かに著者のいうとおり、早く専門医師に診せるべきだったというのは答えのひとつになると思う。でも、それが最適解なのかは時代や文化、風潮によって容易く変わるだろう。 どうすればよかったのかを考え続けられる人が、少しでも増えることが、より豊かな解決を導くのではないかと思った。
  • 2026年5月26日
    営繕かるかや怪異譚 その肆
    悩みや問題は「解決」しなければならない、と思ってしまうのは、人間だからなのか、教育のせいなのか。先延ばしにするのは褒められた態度ではないとされる。 実際のところ、すっきり解決できることなんてあるだろうか?人同士の問題でWINーWINになる落とし所ことなんてまず無いし、相手が論理の通じないものなら尚更。ホラーにおける怪異を調伏できるなんて、ファンタジーだからできることだろう。 営繕屋かるかやがしてくれるのは、建物を繕うことで不快な現象と折り合いをつけること。決して解決ではない。何かしら人間社会の論理では説明できないことが起こり、それが建物や土地を介して発生しているとわかったところで、きれいに解決する術はないのだ。 取り急ぎ、生活を送るのに支障がなければ問題はない。それを先延ばしと呼ぶこともできるが、大事なのは生活を送ること。生きること。参ってしまい視野狭窄に陥ってしまうと、そんなことも分からなくなってしまう。ある意味、かるかやがやってくれるのは京極堂シリーズにおける「憑き物落とし」なのかもしれない。 ※帯でコメントを寄せている、テレ東プロデューサーの大森時生という人は、たぶんこの本を読まずにコメントを書いている。家が安心できる場所でなくなってしまったなんて、どうやったらそう思えるのだろう。
  • 2026年5月26日
    あなたが正しくいられたとき
    あとがきで著者が語っているように、これまで単著に収められることのなかった短編が6作掲載されている。テーマもテイストもばらばらでごった煮のようと表現されているとおり、読み応えもばらばら。通しで読むと、その温度差で少し肩透かしを食らうところもある。 芦沢央の物語を読むと、苦虫を噛み潰したような気持ちになることが多い。それはどんでん返しで物語がひっくり返り、それまで共感を覚えていた登場人物への印象が逆転してしまうからだ。それはこの本でも踏襲されていたように思う。 なかでも攻めた構造になっているのが「薄着の女」だろう。読み始めた当初は、「えっ、これ本当に芦沢さんの書いた物語?」と動揺していた。言葉を選ばずに言うと安っぽい、凡庸なお話だなと。もちろんそれは著者の意図したところで、しっかり騙されていたのだが。しかしこれは、著者にとってもリスクのある挑戦だったのでは。 この短編が、収められる先が無かったのは想像できる。この「ごった煮」たる本だから実現したんだろう。
  • 2026年5月25日
    サイバースペースの地政学
    サイバースペースの地政学
    世界を繋ぐインターネット。それは人工衛星を介して滞りなく行われているもの。そんなふうに思い込んでいたが、衛星通信は全体の1%にも満たず、99%以上は海底ケーブルにて行われていると知って驚いた。 そんなの、切れたらどうするのかと思ったら、年間で100件ほどの切断があるらしい。しかも切れる原因の4割は漁業によると知ってさらに追い打ちを喰らう。そんな危険すぎるケーブルが私たちのネットインフラを担っているなんて…。 ネットは電脳空間に浮かぶユートピアなんて、今考えると甘っちょろい思想で考えられていたころもあるが、情報やデータが格納されているのは形を持ったデータセンターだ。個人情報も国家機密も、世界中にあるデータセンターに置かれていることになる。争いのかたちが情報戦争に変わったとしたら、狙われるのはデータセンターだ。 ロシアがウクライナに攻め込む前から、ウクライナの情報通信網を攻撃していたことを、この本で知った。情報を遮断する、もしくは盗聴できるようにコントロールするのは最優先なのだろう。 そう遠くない未来、戦争できる国になる日本は、こういった情報戦争に耐えられるのだろうか。この国の政府がデジタルに疎すぎるのは、ほぼ全ての国民が知っているに違いない。未来に不安しかない。
  • 2026年5月25日
    ととはり屋敷
    ととはり屋敷
    盛り上がるホラー・怪談業界への牽制が効いている。澤村伊智作品を読むといつも感じるその実感が、本作にも充満していた。 人気の比嘉姉妹シリーズにおける、短編が6作収録されており、過去作で明かされている兄弟姉妹たちの最期が描かれる、とても読後感の重い本だった。 大抵の場合、不幸な目に遭う被害者がいて成り立つのがホラーや怪談といった分野だと思うが、それをエンタメとして楽しむことの罪悪感を忘れさせてくれない。 例えば主人公たる琴子は凄腕の霊能力者だが、育った家庭においては、今で言うところのヤングケアラーだ。冷徹で達観した佇まいは子供の頃からで、それは子供でいることを許してもらえなかった環境に影響されているのは間違いない。 そして収められた短編の一つでは、それが理由で、琴子がピンチに陥る場面が描かれる。小さい頃から大人でいなければならなかった琴子が絶対に思いつかない、いや想定すらできない発想が解決に導く。これには唸らされた。 表題作の「ととはり屋敷」という短編にも、頼れる大人の不在がしっかりと描かれる。こういった社会批評の文脈が息づいているのが、澤村伊智作品が高く評価される理由なのだと思う。 因習村とか、グロテスクな化け物を出すとか、そういった手合いの真似事ホラーとは一線を画している。
  • 2026年5月21日
    教育
    教育
    ディストピア小説は、起こり得そうな未来を先取りしているところに面白さや怖さがあると思っている。本作もその系譜にあるが、解説で吉川浩満も述べているように、実は現実とほとんど変わらないところに凄みがある。 舞台となる学校でのテストは いわば透視という超能力によって行われている。その超能力を磨くための教育が行われているわけではないのに。獲得点数が進級に関わるので生徒たちは何とかして当てようと試行錯誤するが、確率で決まるため、その望み方は結局神頼みでしかない。 数字に一喜一憂するのは現代社会でも同じだ。学校でも会社でも、高い数字を得ることが成長や承認につながるが、そこにどれほどの実質が含まれているのだろう。1点の違いが昇進や合否を分つが、その差は個人の能力差を示せているのか。誰もが疑問に思っているはずだが、半ばそういうものだからと諦めている。そう思っているのだとしたら、本作で描かれている異様な世界とたいして差はないのだと思う。 あまり具体的には描かれていないが、無意識下の女性差別にも目がゆく。例えば、1日3回以上のオーガズムが推奨されているというところ。常に監視カメラが回っている環境で、第三者からオーガズムの有無を確認するとなると、圧倒的に男性が優遇されることになる。男性のオーガズムは目に見えるからだ。 権力を振りかざす人間側には男性が多く配置されているのも興味深い。オーガズムの数が権力確保につながるのであれば、男性が上に立つのも当然だろう。目に見えるかたちで、計上できるのだから。 この作品の舞台となる学校は異様だが、冷静に考えると現実の学校も似たようなものだと思う。教師は校則への批判を嫌う。それはルールに従わないからではなく、なぜこのルールがあるのかを自分が説明できないからなのではないか。 疑問を持つこと自体が否定され、排除される社会。権力側のいうことは常に正しく、批判は「反発」と言い換えられ、教育を施す対象とされる。 あれ、これって日本のことじゃない? 世界中で似たようなことが起こってない? 本作がディストピア小説であり、現代小説でもあると思えるのは、そんな実感を抱かせるからだろう。
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