

yomitaos
@chsy7188
居場所を増やすために始めてみました。居心地のよい場所にしたいですね。
- 2026年7月28日
吸血鬼遠野遥読み終わった遠野遥が描く物語に出てくる男性は、基本的にみんな親切で、物腰柔らかな印象だ。一見するととても良い印象なのだが、よく見るとどこかズレている。なんというか、血が通っていない。 例えば身近な人が不幸に遭い、回復の見込みが限りなくゼロに近いと医師に告げられた男性について。医師から速やかな治療停止を求められたわけでもないのに、「自分が中止を願い出れば、この救命救急センターは次の患者を早く受け入れることができるし、物的資源の無駄遣いも防げる」と考え、治療中止を了承する。 例えばアイドルのコンサートに行き、開演が15分も遅れていることに気づいた男性について。5,000人の観客がいるとすると、失われた時間は5,000×0.25=1,250時間。これだけの時間があれば、社会に有益な何かしらのプロジェクトが完遂できたはず。これは国家的な損失なのかもしれないと考える。 どちらも論理は間違っていないが、人間としてはどこか間違っているように思える。これは女性の人生を決定するのは男性であるという、管理社会が舞台であることを差し引いてもどこか違和感がある。確かに現実の日本よりも酷い女性蔑視の社会ではあるが、SF的とまでは言えない。そう遠くない未来に訪れてもおかしくない程度の管理社会なのだ。だから、この男性の思考に違和感があるのは物語のせいではない。 女性には、星座の王道十二宮をモチーフとしたランクが付けられる。「おひつじ」が最も良く、「おうし」「ふたご」と続き、「みずがめ」「うお」までの12等級がある。基準は有り体に言えば美醜と若さだ。そもそも「おうし」までの高ランクにつけるのは10代半ばの中学生までで、どれだけ美しくても20代を過ぎると基本的に「ふたご」以下となる。 中等教育を終えると、男性側から一方的に選ばれて結婚していくのだが、女性側に断る権利はない。もし強硬に拒否しようものなら、その女性はランク外の「へびつかい」として扱われる。もはや人権というものが存在するのかも怪しい。「悪い子にしてると鬼がやってくる」といった脅し文句は昔からあるが、この物語で女性は「良い子にしないとへびつかいになるよ」と言われて育つ。まさに人外として扱われる、恐怖の対象だ。 このような仕組みが根付いてしまう社会だから、男性側の傲慢さには反吐が出る。…のだが、権力を傘に人権蹂躙に励む暴君のような存在は意外と出てこない。女性をモノとして扱っても問題ない社会なのに、可能な限り手厚く、優しく扱おうとする男性が語り手のひとりでもある。だから、「おお、体制に抗おうとする進歩人なのか」と一見思えるわけだが、冒頭のとおり様子がおかしい。 差別や偏見から自由なふりをしているが、それは自身が特権階級にいるから振る舞えるだけであることにまったく気づいていない。妻が「ふたご」に落ちてしまうことをそれほど気にしていないと言いつつも、「みずがめ」や「うお」になってしまったときは考えさせてほしいと宣う。そのことに微塵も悪意はなさそうだ。 彼の優しさは性格ではなく、磨いた技術によるものだろう。もっというならマニュアルだ。「こういうときはこうするのがより親切である」というマニュアルに沿った行動を取っているだけで、ベースにあるのは無関心であり、他人事なのだ。読んでいるさなか、エルサレムのアイヒマンを何度も思い出した。 現実社会は「個人→世間→社会」の順につながっていると私は考えているが、この物語に出てくる男性には「世間」が無い。世間を意識しなければならない階級にいないので、ダイレクトに社会につながっているように思える。冒頭で引用した歪んだ論理にも、世間の要素が欠けている。よく「政治家には一般市民が見えていない」と言われるが、これと同じかもしれない。世間への関心がなければ、世間からの声が人生に悪影響を及ぼさないほど安定しているのであれば、こういった思考になってもおかしくない。 この物語が映画化したら、容易く純愛物語として表現できるだろう。常に妻を思いやる優しい夫と、献身的な妻。「階級」の差を乗り越えた愛。いくらでも改変できそうだ。今の日本で力を持っている人間は、家父長制を支持していると言い切っていい。この人たちからすると、本書の物語に違和感を持たないかもしれない。同じ物語を読んでいて、「純愛」と受け止める人と「ホラー」と受け止める人がいる。それこそ文学の面白さだとは思うが、正直なところもう笑えない。 - 2026年7月27日
夏帆村上春樹読み終わった@ 自宅陰謀論者|差別主義者が政治を動かすようになってしまった、この日本という国に絶望しているからかもしれないが、私は『夏帆』を抵抗の物語として受容した。 ある種の毒親として描かれる母親からの脱却が、夏帆が描く絵本の物語の変容と並べながら記述されていることで、「父殺し」ならぬ「母殺し」の物語としても読めると思うが、だとすると随分陳腐でありきたりな、今さら村上春樹が書くべき小説だとは思えなかったのも大きい。 母は女王シロアリという悪の権化のような存在に心身を乗っ取られ、急速に変容している。もともと親愛の情を抱く人ではなかったにせよ、露悪的な振る舞いをするようになった母に困惑しているのは夏帆だけではなく、信頼のおける叔父もそうだった。なのに、長年ともに生活しているであろう父は気づいていない。いや、分かっていて見て見ぬふりをしているようにも見える。 母の急変は、それまで「普通の人」だった人間が急に差別的な思想を持つようになる、いわゆるネトウヨ化と見做せる。そうなるに至った経緯≒原因としてはYouTube動画やヘイト本などいろいろあるだろうが、単一のものではない。 「結果には必ず原因がある」という言葉は普遍的で、誰もが疑っていないように感じるが、だからと言って納得できるかは別問題だ。母が急変したのは、悪意を持つ女王シロアリが取り憑いたからだという原因を教えてもらったところで、「なるほど」とはならない。 冒頭で夏帆に「君みたいに醜い相手は初めてだよ」と残酷な言葉を投げかけてくるモーターサイクルの男は、強調するように太字のセリフで以下のように語る。 「ひとつ心に留めておいてもらいたいことがある。それはね、我々が人生において体験する深刻な混乱の大半は、原因と結果の間に等価性が見いだせないことによって生じるということだ。」 母の変容を原因と結果の法則から導いたところで、そこに等価性は見いだせない。夏帆は武蔵境の自宅の底に住まうありくいの夫婦(特に奥さん)から助言を受け、母を救う、あるいは折り合いをつけるための物語を紡ぎはじめる。 これは現実の物語としても、描く絵本の物語としてもそう。むしろ、現実を理想的なものとするために絵本の物語を変容させているように見える。つまり、結果に納得いかないから原因側を改変している。これは結局のところ、原因と結果の間に等価性を見いだせないからだと私は理解した。 小説では、「母殺し」に成功した夏帆が元の生活、いや人生を取り戻していくように語られる。けれど、私には変容した母と折り合いをつけるために折衝を続けるのではなく、強硬的な殺傷行為を行って悪意の部分だけを排除したように読めた。変容した悪意の部分だけを殺す? そんなことが可能なのだろうか。それは例えば、「陰謀論者の脳に介入して、陰謀論部分を切除したら善良な人間に戻る」と言っているようなものだ。個別具体的な原因などというものは無いのだから。 夏帆は自分が思う理想的な物語(=自分が描く絵本)に合うように現実を改変したのではないか。それが表題の英語部分「The Tale of KAHO」の意味合いなのではないか。 夏帆に辛辣な言葉を投げかけるモーターサイクルの男は、「自身は女性の人権に配慮できる現時代的な中年男性である」という自己認識の、自称リベラルな差別存知論者と解釈できる。差別はいけないけれど、相対的に女性が差別される側にあるのは、ある種仕方のないことだと受け止めている自称守護天使(≒パパ活おじさん的?)って、果たして夏帆の味方だと言えるのか。 ありくいの夫婦もそうだ。何かにつけて夏帆の側に立つ素振りを見せ、諸悪の根源として女王シロアリを持ち出すが、この夫婦を信頼する理由は特に無い。自論補強のためにシロアリらを使っているようにも見える。 世の中が極端に人種差別的になっている中、良識を持つ側であり続けるためにはひたすら抵抗の精神を抱えていないといけない。私は「人の本質は悪」だと思っているので、基本的には負け戦が続く。夏帆は良識ある人だと思うが、モーターサイクルの男やありくい夫婦などの疑わしい存在にかどわかされながら、苦しいまでの撤退戦を続けているように感じられた。 子どもを読み手に描かれる絵本は、やはりどこか「絵空事」になる側面がある。現実世界はそんなにきれいなもんじゃない。それを分かっていて、「こんな嘘みたいな世界が現実になればいいのにな」という、少しの希望が込められているように思う。夏帆の描く絵本は、自分の非現実じみた体験を経て変容していくが、そこに私はわずかばかりの抵抗の精神を垣間見た。 - 2026年7月23日
黄金比の縁石田夏穂読み終わった@ 自宅社会人人生で数年、人事に携わったことがある。自社で活躍できる人材の見極めができるはずもないまま、送られてくる履歴書に目を通し、それらしい理由を付して是が非かを決めていた。その際、志望動機や経歴で決めたことは無い。雰囲気だ。数値化できない人柄だ。究極のところ、「なんとなく」だ。だって、何で判断すれば正解なのか分からないから。 ある理由で会社への恨みを募らせた本書の主人公は、人事部で採用に携わった際、ひとつのルールを設けた。できうる限り会社に大きな損害を与えられる人を採用するため、顔の黄金比で可否を決めるということだ。主観的な美醜ではない。各パーツ間の距離を計測するだけなので、高い鼻やきれいな笑窪、美しい目尻などは評価されない。 なぜ黄金比の顔であることが会社に損害を与えられるのかは、見事な論理展開で説明されていく。屁理屈といえばそうなのだが、そもそも採用に正攻法も定理もないし、誰もその基準を示せない。だから結局のところ、人事担当の意向で決まるものだ。それっぽい理由を付けてはいるだろうが、根拠など無い。それなら、明確な理由を示せる黄金比の方が、求職者からすれば理解できるだろう(納得はできないだろうけれど)。 就活模様を描く小説では、朝井リョウの「何者」が極めて素晴らしい心理描写で綴られていると思う。新卒一括採用で苦しむ学生側を描くものしての「何者」に対し、「黄金比の縁」は採用側の苦しみが伝わる物語だ。根底には、システムへの懐疑がある。 「なぜこんな採用の仕組みが前提になっているんだろう?」 「こんな茶番で人生を狂わされる身になってほしい」 味わった経験のある人ならば、誰しもが持つだろう感想。「黄金比の縁」の主人公は、このシステムでまともに人が取れるなんて思ってもいない。苦悩すること自体がバカバカしいと思っている。世界を、社会を「わたし基準」で再定義し、テキトーにサバイブしているところがとてもかっこいい。 狂ったシステムによる曖昧な是非に一喜一憂する方がおかしい。おかしいのはお前だよ、と常に言い返せる自分にありたいと思える名著だ。 - 2026年7月23日
闇祓辻村深月読み終わった@ 自宅自分の不幸をダシに、他人に過度な共感を求めてすり寄ってくる人って、たしかにいる。そういう人に「ああ、わかるよ、大変だったね」「あなたは悪くないよ」といつも相槌を打っていると、それ以外の対応ができなくなる。否定しようものなら、「ひどい、あなただけは味方だと思ってたのに!」と激昂され、周囲にあることないこと言いふらされる。これって、何かしらのハラスメントになるのでは…と思っていたが、本書で明示された。闇ハラスメント、略して「闇ハラ」だ。 屁理屈という言葉がある。屁という言葉が付くものの、一応は理屈なので、本人に押し通す気概があれば貫けてしまうところがあると思う。社会は一定の論理が共有されていることを前提に成り立っている。例えば「いじめはいけない」し、「人前で恥をかかせてはいけない」。けれど、その前提をぶっ壊して、「オレ論理」で解釈して押し付けてくる人がいる。 その勢いがなまじ強いと、論理的な人ほど気圧される。相手にも言い分があるだろうし、少しは道理があるのかも…と判断して、飲み込んでしまうのだ。そうしたことを繰り返していくうちに、闇の論理に飲み込まれてしまう。闇ハラスメントの「闇」たる所以がここにある。 どうしても闇ハラを行う個人に目が向いてしまうが、これはその存在を許してしまう社会や構造、システムに問題がある。どれだけ個人を罰しても闇ハラは生まれるのだから。これって、優れたホラー作品が持つ視点だと思う。例えば澤村伊智の比嘉姉妹シリーズなんかがそう。 読後に振り返ってみると、この物語は多分に比嘉姉妹シリーズを意識して描かれているのではと思った。著者の辻村深月が澤村作品をリスペクトしているのは有名だし、批評性の強靭さを有していることにも納得だ。 - 2026年7月19日
ドッペルゲンガーナオミ・クライン読み終わった@ 自宅昔、Twitterのアカウントを乗っ取られかけたことがある。無名の弱小アカウントでさえこんなことがあるのだから、有名人が乗っ取りに怯えるのもよく分かる。たいして発信していたわけではないが、どこか自分のアイデンティティを失ったような気になった。 著者のナオミ・クラインはアカウントを乗っ取られたわけではない。似た名前の別人(ナオミ・ウルフ)と混同されただけだ。ただ問題は、その混同された相手が極右の陰謀論者だったことだ。発信源をちゃんと確認しないユーザーたちが、クラインは変わってしまったと嘆く。…それ、クラインじゃなくてウルフのほうですよ? 何度指摘しても、勘違いする人は増える。 戸惑うクラインが取ったのは、見ることも近づくことも避けていた陰謀論グループに飛び込むことだった。そこではいったい何が行われているのか、直に経験しようとしたのだ。この勇気に恐れ入る。 私は心の底から陰謀論者、差別主義者を軽蔑しており、関わることを全力で拒否している。クラインにもそういったところはあったようで、調査開始時点でめまいを起こしている様が色濃く描かれている。ただ次第に分かっていったのは、こうしてリベラル陣営がバカにして相手にしない間に、陰謀論者たちはリベラルの言動をしっかり学んでいるということ。戦略的に戦っているのは陰謀論者たちの方なのだ。 アメリカに限らず日本でも、リベラルだった人が極右に急転する様をたびたび見かける。ゆるやかに思想を変えていくのは理解できるが、なぜ真逆に振り切れるのか、ずっと分からなかった。クラインは調査を進める中で、個人の問題ではなく、不安定な社会でアイデンティティを確立することの難しさがあることに気づく。なるべくしてなるというか、システムがそう成り立たせてしまうような、仕組みの問題が大きく関わっている。 クラインにとってウルフは迷惑な存在だが、きっかけがあればそうなっていたかもしれないと思える存在でもある。ドッペルゲンガーは、見てはいけないものとして描かれる。自身のアイデンティティを確立する上で、似ているのに違う存在は邪魔でしかないし、けして認められないものだろう。(認めると自分のアイデンティティが揺らぐ) ウルフがなぜ極右に急転してしまったのか。それは、失敗によりそれまでのポジションを失うことになり、揺らいだアイデンティティを再構築するには、「この道しかなかった」からなのかもしれない。ウルフを取り巻く環境はまったくもって一枚岩ではない。何なら思想が真逆の人も存在する。なのに何故同じ陣営でいられるのか? 陰謀論者の陣営は、不思議と連帯感がある。各々がバラバラのことを言っているのに、なぜかつながっている。左翼やリベラルに、そういった連帯感はない。ひとつでも差異があれば連帯できない。そんなこともしているうちに極右は謎の連帯感によって膨れ上がっていく。これは当の日本でも同じじゃないだろうか? 例えば在日外国人を差別することのみで連帯し、あとの政策志向はバラバラの人たちをよく見かける。はっきり言って愚かな人たちだと思うが、そうやって見下していても社会は良くならない。連帯には連帯を、ケアにはケアで対応してかないといけない。 まさかこんな結論に辿り着くとは、読む前には思ってもみなかった。私には陰謀論者の陣営に飛び込む勇気はない。ただ、連帯を強めないとならないことだけは、痛いほどよく分かった。 - 2026年7月18日
なんかいやな感じ武田砂鉄読み終わった@ 自宅モーニング娘。の恋愛レボリューション21の歌詞、「超超超 いい感じ 超超超超 いい感じ」がなんとなく頭に浮かんだ。この国に跳梁跋扈する排外主義者たちは、自分たちが行う差別でこの国が「超いい感じ」になると信じているのだろうか? 生まれてこの方、ずっと斜陽のこの国で、私はずっと「なんかいやな感じ」のまま生きている。死にたいのではなく、生きたくない。生命力を減退させるのに全力を振り絞っているような、この感じ。薄気味悪い。 著者と同じ1982年に生まれた私は、神戸連続児童殺傷事件の元少年Aや、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大元死刑囚と同い年だ。事あるごとに同じ括りで無意味に危険視され、揶揄され、嗤い者にされた。レッテルを貼られるのには慣れている。貼ってくる奴は人間じゃないと思うことでやりくりしてきた。 誰かが、「この国には希望だけがない」と言っていた。一筋の希望さえあれば、すこしは「まあまあいい感じ」で生きていけるのに、と思う。お子様ランチの旗が議論になる国って、何なんだろう。本当に薄気味悪い。為政者がお子様並みの知能しかない国に、希望が芽生えることなんてあるんだろうか。 - 2026年7月17日
ハンナ・アーレントのように考えるリンジー・ストーンブリッジ,角敦子読み終わった@ 自宅哲学書に書かれていたことを解釈する本は多いけれど、考えた哲学者の思考方法を学ぶ形態の本って、あんまりないのかもしれない。そんなことを思って手に取った。 日本はもちろん、これまで民主制を謳ってきた国がどんどん全体主義に後退していく現代。ホロコーストの被害者として全体主義に抗ってきたアーレントの思想が世界中で求められている。 アーレントは言う。全体主義は命を軽視してよい人間を決めつけることから始まると。この国で俄かに始まった在日外国人への差別は、その端緒となる。 あらかた片付いた後、外国人を排除しても良くならない情勢を目の当たりにした排外主義者たちは、次なる敵性外国人を見つけようとするだろう。それはきっと沖縄人であり、アイヌであり、東北在住者になる。純粋日本人を定義化していったら、それに当て嵌まる純度の低い人たちがターゲットとされるに決まっている。 この国の未来は相当暗いが、私は抵抗者でありたい。アーレントのように考えられる人でありたい。 - 2026年7月17日
文庫版 死ねばいいのに京極夏彦読み終わった@ 自宅昨日映画版を観てきて、原作を読みたくなったため再読。会話劇の本作から極限まで会話を削って、成り立たせるのに必要な最小限の言葉だけを使って構成されていた映画だったことが改めて分かる。渡会の「人であってあらざるもの=妖怪」っぽさが主演の奈緒によって上手く表現されていたし、なにより原作では一度も出てこない鹿島亜佐美(演・伊東蒼)をビジュアルとして観れたのが嬉しい。亜佐美の分からなさが加速する。渡会がこの人のことを知りたくて嗅ぎ回るのはよく分かる。私も亜佐美についてもっと知りたい。 映画単体で観ると、背景情報が足りなさすぎて「理解」以前に「把握」ができない問題があると思った。原作における、渡会の対話者が自分の話しかしないという言葉への納得感がないのが大きな問題かなと。(映画ではそれほどテキストボリュームがないので) 渡会という妖怪、または鏡によって対話者が自ら追い詰められていく様が原作の見どころのひとつだが、そこが映画では弱かったように思う。逆にそれが効果を発揮したのは、亜佐美の母のシーン。映画では5分もないくらいに圧縮されていたのだが、演じる田畑智子の薄っぺらい号泣模様を淡々と映すだけで、母であるこの人が一番亜佐美のことを知らないのが分かるように演出されていて見事だと感じた。(田畑智子の演技が凄いから薄っぺらさが伝わるのであって、下手だから薄っぺらいというわけではない。断じて。) はじめて原作を読んだのは15年前で、その頃の自分は渡会に何も反論できなかった。彼が放つ「正論」は強固で、太刀打ちできなかった。今の自分なら対等に渡り合えると思って読み直したのだが、やはり何も言い返せなかった。まったく成長していない。そもそもいい大人が成長なんてしないと思っているけれど。 「死ねばいいのに」って、そう思える相手が目の前にいないから言える言葉でもある。例えば現在の首相や与党の人間に対して私は「死ねばいいのに」と気軽に口に出すが、目の前にいたとしたら流石に躊躇する。むしろ気軽に使うから許される言葉で、本気で使われるべきではないのかもしれない。 渡会は対話者を目の前にして「死ねばいいのに」とつぶやく。別に相手に対して呪詛の念があるわけではない。「そんなに今の人生が嫌だというなら死ねば?」という、気軽な気持ちで口に出された言葉だ。でも大抵の人は「嫌だ、死にたくはない」という。そういうものだろう。主体的に、能動的に死にたい人はそう多くない。 渡会もそう思っているから、簡単に「死ねばいいのに」と口に出す。けれど亜佐美は「死にたい」と言った。「殺して」ではない。 今の人生が幸せだという彼女は「死にたい」と言う。今の人生が嫌だという人たちは「死にたくない」と言う。なんだか矛盾している気がする。渡会が亜佐美の分からなさに途惑うように、読者も人の分からなさに途惑う。 「相手の気持ちになって考えなさい」などと簡単に言うが、相手が本当はどう思っているかなんてぜったいに分からない。分かった気になるだけだ。もしくは、そう決めつけるだけ。 渡会は事実を求めているのであって、真実にはさして興味がないんじゃないかと思った。真実は人の数だけある。亜佐美についてそれぞれが語ることは、作られた真実だ。人は主観によって、捻じ曲げて構築する。渡会は亜佐美について様々な人から話を聞くなかで、「それは違うんじゃねーの?」と厳しく突きつける。 渡会は鏡と先ほど言ったが、ただ反射しているわけではないのかもしれない。言うなればプリズムか。真実の数だけ事実が屈折して乱反射する。結果、ほんらいの亜佐美の姿が見えなくなる。それを渡会が集約していっている。私にはそのように見えた。 渡会が「君は人殺しだ」と突きつけられる最後、彼は安心したように目を伏せる。なぜなら、それは事実だからだ。何も屈折していない。誰かの歪んだ真実でもない。渡会はとても「まっとう」な人間だと思う。 - 2026年7月15日
純文学って何だよ鴻池留衣読み終わった@ 自宅 - 2026年7月15日
- 2026年7月14日
反逆(上)遠藤周作読み終わった@ 自宅 - 2026年7月7日
広告都市・東京増補北田暁大読み終わった@ 自宅広告畑で長く働いていながら、どうしても広告が好きになれない、web広告に至っては産業廃棄物だとすら考えている。 あらためて広告の気持ち悪さに抗っていくために、名著と呼ばれる本で学ぼうと手に取ったのがこの本。北田暁大の本はどれも面白いと思う。 地元京都にいたころはほとんど感じず、東京に拠点を移してから如実に感じるようになったことに、「なんでこんなに広告が多いんだ…!」という怒りがある。個別具体的な広告が多いということもあるが、それ以上に街そのものから広告臭がすることに辟易していた。 この本で、70年代に西武-パルコが実験的に行った広告=都市の方法論が語られる。なるほど、この方法論が今も残り、また続けられていることで、都市そのものから広告臭がするようになっているわけだ。街を歩くだけで常に消費者として見られる気持ち悪さ、ようやく納得した。 - 2026年7月4日
木挽町のあだ討ち永井紗耶子読み終わった@ 自宅人情ものは苦手だ。現実は非常なのに、あまりに理想的すぎて鼻じらむ。だったのだが、この本でその解釈を改める必要が出てきた。 それは登場人物すべてに矜持を感じたからだと思う。思いつきの善行ではなく、登場人物それぞれの人生から導き出される結果として人情味ある手助けが行われる。そこへの納得感がある。 単なる仇討ちなら、他にいくらでも作品はある。仇を打つ理由への納得感を醸成することでカタルシスを生むエンタメも多い。この作品はそんなレベルで止まらない。タイトルの「仇」が「あだ」と平仮名になっていることにも意味がある。 この本の凄みは、視野を広げてくれるところにあると思う。その悩みや惑いは、知る世間が狭過ぎることに原因があるのでは?と問いかけてくる。生きるのを辛くしているのは、ただの思い込みなのかもしれない。これは作中の時代に限らず、現代でも変わらない、普遍的なテーマだと思う。 - 2026年7月3日
ホルモー燦燦万城目学読み終わった@ 自宅京都生まれ・京都育ちの人間として、「鴨川ホルモー」はもはや後世に伝承すべき物語だと思っている。自分も鴨川デルタでオニを操り、敗北の末に「ホルモォーーーー!」と絶叫した存在しない記憶がある。その完結編を、2026年になってまとまって読めることが嬉しい。 気になっていたことがある。京都でホルモーを経験した大学生たちは必ずしも京都で生涯を終えるわけではない。東京で就職したりもするだろう。となれば、京都外でもホルモーについて語らう機会もあるはず。そういえば、地方でホルモーが行われている可能性はないのか? あったのだ、「東京ホルモー」が。京都人にとって、東京は地方だからね。京都とは違う形式で行われるホルモー。そこで戦う、本編の後輩にあたる人たち。その人がホルモーと関わっていった結果、行く末が気になっていた本編の登場人物たちと意外な縁を繋ぐ。もうそれだけで、お腹がいっぱいになった。 過度にシリーズ展開していかなかった本作は、きれいに幕を閉じた。これでいいのだ。 - 2026年7月2日
黒牢城米澤穂信読み終わった@ 自宅黒沢清監督の映画版を観て、あらためて原作を読み直したく文庫版を購入。時代ものは、ただそれだけで読み手にリテラシーを要求してしまうものだが、これは違う。骨格はミステリーで、安楽椅子探偵が謎を解くという流れも、ある意味で慣れ親しんだ構造。トリック自体もそう驚くものではない。というか、そこに面白さがあるわけではない。 あえて書くならホワイダニット系の物語で、いわゆる黒幕にあたる人物がなぜこういった行動を取ったのかが面白く、しかも普遍性がある。解説でマライさんも言っているとおり、ナチスドイツの殺戮や文化大革命など後の世界で起こる出来事と地続きになっている。武家の矜持は現代人に理解できなくても、マチヅモが原因で起こる事象に置き換えれば、そう大きな違いはない。 作中で荒木村重がつぶやく、信長は殺し過ぎるという言葉が重い。あらためて織田信長という人物が生涯に手を掛けた人間の数を考えてみると、越前一向一揆殲で14,000人、天正伊賀の乱の30,000人、比叡山焼き討ちで3,000人程度とされているから、これだけでも50,000人弱。日本史上、これほど人を殺した人間はいないのではないか。 こんな化け物に仕えるというのが、どういうことなのか、何を意味するのか。冷静に考えてみると、理解が追いつかない。 映画を観てから、ずっとこの作品のことを考えている。自分にとって、死ぬまで忘れないであろう、心臓に三間鑓を打ち込まれたような傑作だ。 - 2026年7月1日
直木賞候補作全部読んで予想・分析してみました: 第163回~172回マライ・メントライン,杉江松恋読み終わった@ 自宅 - 2026年7月1日
星野源論つやちゃん,小田部仁,戸部田誠(てれびのスキマ),【編者】小田部仁読み終わった@ 自宅 - 2026年6月30日
首北野武読み終わった@ 自宅 - 2026年6月29日
怪談小説という名の小説怪談澤村伊智読み終わった@ 自宅 - 2026年6月27日
戦国武将伝 西日本編今村翔吾読み終わった@ 自宅
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