
ジクロロ
@jirowcrew
2026年7月18日

力 美的人間学の根本概念
クリストフ・メンケ,
中村徳仁,
吉田敬介,
杉山卓史
読んでる
これに対して力の戯れを美的に経験することは、わたしたちの内に「無条件のものと条件づけられたものとの未解消の争いの感情」を喚起する。このことはさしあたり、生動化された力と美的戯れにおけるその表現との関係に当てはまる。力が存在するのは、それが作用し表現を産出する限りにおいてである。力の作用はしかし、それが「曖昧」なものと理解されるならば、つねに先行するものからの表現の産出である。表現を産出するとは、力の美的戯れにおいて表現を踏み越えることである。それゆえその作用において、力はつねにそれが産出する表現と矛盾する。美的な力とは(シュレーゲルの言葉で言えば)「無条件」である、なぜならそれは、基本的に過剰だからである。このようにしてわたしたちは、力の作用を美的戯れにおいて経験するのである。
(p.167)
難しい文章だと思いつつ、「無条件のものと条件づけられたものとの未解消の争いの感情」という一文に、カニエ・ウエストの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』というアルバム制作の経緯が思い浮かぶ。
(このアルバムのタイトルそれだけで、この本の内容の6割分は要約できているようにも思える)
「無条件のもの」とはカニエの音楽であり、カニエ自身でもあり、「条件づけられたもの」とはそんな彼を葬ろうとするマジョリティであり一般道徳であるということ。
「カニエ自身が無条件」というカニエ自身の認識が、現在進行形でいろんなスキャンダルと波紋を投げかけるものの、カニエの音楽自体はまさに「無条件」であることを、このアルバムでもって知らしめている。これこそが本文で言うところの「美的な力」表現そのものという感じがする。
「無条件のものと条件づけられたもの」
この差異により圧倒的な力が現れ、その猛威を奮うことで「未解消の争いの感情」が(一時的に)鎮められること。このアルバムはカニエとリスナー(ヘイター)にとって、ある意味でレクイエムとも言える。
Ain’t no question if I want it, I need it
I can feel it slowly drifting away from me
I’m on the edge, so why you playing?
I will never ever let you live this down, down,
down
(『Gorgeous』 カニエ・ウエスト)
マジョリティサイドの『Gorgeous』 、カニエはそれをゴルギアス(プラトン)の弁論術さながらにあしらう。マジョリティの論法という俎上に乗らず、彼の音楽で闘う。
カニエは、かたちのない「it」を切実に求める。
だからこそ彼の裡に、自身の音楽においては
(たとえ彼自身の人生に「堕落」という烙印を押されたとしても)決してリスナーを落ち込ませてはいけない、という法外な「力」がはたらき、彼独自の「過剰」を華麗に操作したのだろうと思う。
(ソクラテス)
「というのはつまり、ぼくたちが一国の中で、君の望むような権力を選び取ろうとすれば、それはぼくたちの一番大切なものを賭けてのことになるだろうからね。」
(『ゴルギアス』プラトン 513A)
