力 美的人間学の根本概念

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ジクロロ@jirowcrew2026年7月22日読んでる芸術家は、何かを行いそれゆえに何かができる者であるというそのために、中心的な存在となる。芸術家から学ぶとは、芸術家さながらに活動するようになることであるしただしそのことは、別の問いに答えるために、すなわち賢者の問い、哲学的な問いに答えるために、芸術家から学び取られる「力」を利用することによって、もっぱら「もっと賢く」なされるのだという。この問いとは、善き生への問いのことである。 (第6章 倫理学) 「力」は放っておくと「能力」に堕する。そして能力は手段として機能する、奉仕する。利用されるための力、それを能力というのかもしれない。 「力」そのものの純度を保つこと、そして無条件にはたらかせること。 能力がストックとすれば、それは反復によりすり減っていく。力はフロー(チクセントミハイ)、一度きりのダンス。 「問い」を立てるのは哲学者であり、その問いを打ち破るのに芸術家の力を利用するという。哲学者に触れられた力は「能力」と化する。 「善き生」とは、本当の芸術家の作品ではなく創作活動でしか教えられないということか。 「何かができる者」、自分はその表現にふさわしいのは芸術家というよりも「子ども」ではないかと思われる。 「子ども」とは、大きくなった人間が発明した「善き生」ではないか、という問いが出てくる。
ジクロロ@jirowcrew2026年7月18日読んでるこれに対して力の戯れを美的に経験することは、わたしたちの内に「無条件のものと条件づけられたものとの未解消の争いの感情」を喚起する。このことはさしあたり、生動化された力と美的戯れにおけるその表現との関係に当てはまる。力が存在するのは、それが作用し表現を産出する限りにおいてである。力の作用はしかし、それが「曖昧」なものと理解されるならば、つねに先行するものからの表現の産出である。表現を産出するとは、力の美的戯れにおいて表現を踏み越えることである。それゆえその作用において、力はつねにそれが産出する表現と矛盾する。美的な力とは(シュレーゲルの言葉で言えば)「無条件」である、なぜならそれは、基本的に過剰だからである。このようにしてわたしたちは、力の作用を美的戯れにおいて経験するのである。 (p.167) 難しい文章だと思いつつ、「無条件のものと条件づけられたものとの未解消の争いの感情」という一文に、カニエ・ウエストの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』というアルバム制作の経緯が思い浮かぶ。 (このアルバムのタイトルそれだけで、この本の内容の6割分は要約できているようにも思える) 「無条件のもの」とはカニエの音楽であり、カニエ自身でもあり、「条件づけられたもの」とはそんな彼を葬ろうとするマジョリティであり一般道徳であるということ。 「カニエ自身が無条件」というカニエ自身の認識が、現在進行形でいろんなスキャンダルと波紋を投げかけるものの、カニエの音楽自体はまさに「無条件」であることを、このアルバムでもって知らしめている。これこそが本文で言うところの「美的な力」表現そのものという感じがする。 「無条件のものと条件づけられたもの」 この差異により圧倒的な力が現れ、その猛威を奮うことで「未解消の争いの感情」が(一時的に)鎮められること。このアルバムはカニエとリスナー(ヘイター)にとって、ある意味でレクイエムとも言える。 Ain’t no question if I want it, I need it I can feel it slowly drifting away from me I’m on the edge, so why you playing? I will never ever let you live this down, down, down (『Gorgeous』 カニエ・ウエスト) マジョリティサイドの『Gorgeous』 、カニエはそれをゴルギアス(プラトン)の弁論術さながらにあしらう。マジョリティの論法という俎上に乗らず、彼の音楽で闘う。 カニエは、かたちのない「it」を切実に求める。 だからこそ彼の裡に、自身の音楽においては (たとえ彼自身の人生に「堕落」という烙印を押されたとしても)決してリスナーを落ち込ませてはいけない、という法外な「力」がはたらき、彼独自の「過剰」を華麗に操作したのだろうと思う。 (ソクラテス) 「というのはつまり、ぼくたちが一国の中で、君の望むような権力を選び取ろうとすれば、それはぼくたちの一番大切なものを賭けてのことになるだろうからね。」 (『ゴルギアス』プラトン 513A)


