
うゆ
@otameshi_830
2026年7月19日
シュルレアリスムとは何か
巌谷国士
読み終わった
巖谷國士の講義(講演)録。
1993年から1994年にかけて行われた講義は
シュルレアリスムとは何か
メルヘンとは何か
ユートピアとは何か
の全3回で『シュルレアリスムとは何か』、その根本のところを掴んでいこうというもの。
もうこの3章タイトルを見ただけで涎出ちゃうじゃないの〜
内容は入門編という感じなのだと思いますがまさに初心者の私にはちょうどよい。
特に3章は今まであまり考えたことがなかったのでなるほどなるほどということばかりだった。
【この本で学んだこと】
・シュルレアリスムは「超/現実主義」でなく「超現実/主義」
・「超現実」とは「非現実」的なことではなく「チョー現実」(「チョー」かわいいの「チョー」である)
・チョー現実、つまり強化された現実は、主観の見る夢というより客体/客観、オブジェクトの世界
…「自動記述」の方法に端を発するシュルレアリスムだが、自動記述の速度をどんどん速めていくと「私」という思考する主客/主観は消え去り、もっと大きなもの、「だれか」が立ち現れてくるという。そして考える私、私が考える、ではなく、だれかに考えられる私になってゆくらしい。そこには時間も存在せず、“ただオブジェだけが遍在する世界”がひろがる。これは結構危険なことで、狂気の世界へ飛び出していってしまい帰ってこられないこともありそう…。このあたりの話はスリリングでとても興味深かった。『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』はやはりいつかは読んでみようかな。(ブルトンの文章ちょっと読みにくくて躊躇していた)。
・シュルレアリスムとは「私」が何かに出会うというより「客体」が私に訪れるのを待つものであり、現実離れしたものではなくより強い「現実」が私の前にやってくる、私ではなく客体の創造/想像の世界なのである。
…てことかな…
思考的革命!
メルヘンの章では
「ファンタスティック」と「フェーリック」についての話が気になった。もう少し「フェーリック」を自分で掴めるようになれたらいいなと思う。
先日見たシュルレアリスム展やおとぎの国のモードをさがして展で、シュルレアリスムとメルヘン(メルヒェン)は根っこを同じくしているのかなと思い、この本でもそう…なのだが
実はメルヘンの世界(妖精の国)とシュルレアリスムとは別物で正反対のものでもあると…。
このへんはモードに進出したシュルレアリスムとの混同が私の中であるのだろう。ベンキョーを続けよう。
思うにシュルレアリスムとシュルレアリスム風は全然違うもので、出来上がってきた絵画なりなんなりは私のような素人目には同じように見えてしまうこともあるのだと思う。
作り手は自分の作品をジャンル分け、カテゴライズしたりしてないだろうし…
夢の世界なのか、主観の幻視なのか、メルヒェン的世界を描いたのか…はたまたシュルレアリスムを絵画として表現してみたのか…
今までよくわからず観てきてしまった。
わかる日がくるかは謎だが今後いろいろ考えながら観てゆく楽しみができたな。
メルヘンの章はシュルレアリスム関係なくても好きな分野なのでとても愉しく読みました。(他の章も興味の尽きることはなかったけど)。
さてユートピアの章。
・ユートピアってほとんどディストピアと同義語…
・ユートピアの反対語はディストピアでなく迷宮、ラビリンス。
・西洋のユートピアと東洋の楽園は全然別でむしろ対立するもの。
プラトンが思想を現実に実現させようとするとどうもおかしなアブナイ方向にいくのは概念の世界を現実の世界に移し替えるときの齟齬というか軋みみたいなものなのかなと思っていたのだけれど、どうも思想そのものからして多分にディストピア的だったということか。
この本のなかで巖谷國士さんは現代社会、特に現代日本社会に警鐘を鳴らしている。といっても1993年の講義なのだから…その後30年余りで日本はどういう方向に進んだのか。
つまらない薄っぺらい安い現実で顔をなくし個性をなくし社会の機能として存在することに安寧すら見出していないか。
あ、ヤマザキマリさんもそんなこと書いてたっけ。
芸術に触れ文学に触れ今ある「当たり前」と思わされている現実にひびを入れる経験を積む。
…そんな人間も、そういうことをさせる芸術や文学や学問も、排除したいだろうね…





