

うゆ
@otameshi_830
本に関するメモ。
favorite:アガサ·クリスティー/D·W·ジョーンズ/フランシス·ハーディングなど
- 2026年5月17日
チューダー朝英国人の日常生活 下ルース・グッドマン,風早さとみ読み終わった下巻も読了!最近読んだいろいろな本に繋がって大変面白かったです。アスカムくんやロバート・ダドリーも出てきてしつこいようだが『セシルの女王』の民はテンション上がりまする。自分が所有する劇団に衣服を下げ渡していたのか〜。つまり貴族や王様の衣裳はホンモノ!なわけでそれを観てあーだこーだ言うのも民衆の楽しみだったんだろうな。筆者のシェイクスピア好きにもニッコリ(^^) また今日の西洋のコース料理の順番は元をたどれば古代ギリシアまで行き着く?!なぜあの順番なのかちゃんと古代や中世の時代なりの理由があって(それがまた興味深い)それが今でも踏襲されているとは!四体液説はながらく信じられていたからやはり多少は押さえておかないといけないね。『メランコリーの文化史』読んで本当に良かった。ほかにも私生児を産んだ女性に対する社会からの罰は道徳的なものと思いがちだったが、経済的社会機構的理由も大きくてなるほどだった。 西欧中世の民俗学というと日本には阿部謹也という素晴らしい方がいますが、ルース·グッドマンが凄いのは文献だけでなく実践もしているというところ。文献からの想像、あるいは思い込みには、間違っていることもあるわけで。 愉しい読書時間でした! - 2026年5月15日
七人兄弟アレクシス・キヴィ気になる - 2026年5月14日
読み終わった古代ギリシアからデカルト、ライプニッツ、フロイト、ラカン、ジャコメッティに至るまで。メランコリーを軸に西欧の思想史を壮大に旅するような一冊。要は人の心の問題である。近代に自我が発見されるとよく言われるがそれがどういうことか少しずつわかってくる。喪失は存在と根源的に結びついている。喪失なくして存在はあり得ないのか。喪失なき存在は神のみということ? 相変わらずラカンになると急激に難しくなって文章のわけがわからなくなる〜。なんか良い入門書ないかな…。 またしても読みたい本が増える読書でした! 喪失による鬱に打ちのめされそうになったときこの本を読んだことが何か役に立つかはわからない。押し潰されそうな悲しみを癒すことはできなくても、それに耐え時が経つのをひたすら待つ間、今自分に何が起こっているのか頭で理解しているというもう一人の自分の存在は髪の毛一本ほどのよすがになるだろう。 面白い本だった。 - 2026年5月12日
和歌と漢詩 古典日本語のイメージ渡辺秀夫読みたい - 2026年5月11日
名画で読む「音楽の秘密」中野京子読み終わった音楽を切り口に中野京子さんが語る美術エッセイ。といってもクラシックの名曲に纏わる絵画作品を扱うのではなく、金属の耳飾りが揺れて発する一瞬の音の緊張、遠くから聴こえる夕暮れの鐘の音に漂う敬虔、思わず踊り出す農民や家族のひとこまの楽しさなど、画面から音/音楽を感じさせることを切り口にしているのが本書のポイントだと思う。音を奏でる絵画。絵画も楽器になれる?!ただし振動させるのは空気ではなく見る人の心の琴線、あるいは記憶。先天的に耳の聴こえない人はこうした絵画をどう見るのだろうか、などと考えてみたり。 ミレーの《晩鐘》はやはり特別な作品だと思いました。 - 2026年5月11日
階級と「私たち」のゆくえ河野真太郎気になる - 2026年5月11日
ほんのささやかなことクレア・キーガン,鴻巣友季子読み終わった【ネタバレありです】 児童文学をも思わせる文体ながらゆっくりと螺旋を降りてゆくような不安と緊迫感に包まれる。真っ黒なバロー川にそうなったかもしれない選択をした自分を流してファーロングの取る行動は。とても巧みな中篇で私は好みでした。 けれどどうしても妻と娘の立場で考えてしまう。裕福な名家の奥様に扶けられたディケンズかぶれの似非坊々が何してくれとんのじゃと。その善行のために犠牲になるであろう妻と娘はどうなる。 政治や社会機構に深く結びついた修道院での公然の秘密に楯突くことは彼とその家族がコミュニティの外に出てしまうことを意味する。洗濯場からたったひとりの女の子を救っただけで何が変わるのか。自己満足ではないのかと思ってしまう。どうやら私はキリスト教的な善き人間にはなれそうもない。 けれど彼のような決断、いちばん最悪の未来を選ばないこと、つまり(多分)最後の審判で地獄に落とされないこと、そのために魂に照らして善き行いをすること、それがダムを決壊させる針の一刺しになるのかもしれない。 誰もが何もしなければ、螺旋を描くように蟻地獄に落ちてゆくだけなのだから。 ファーロングを育てた奥さまがプロテスタントだというのには少し…うーん…やはりカトリック=悪、プロテスタント=善という構造はどうなのかなと思いつつ。 労働者階級の母の私生児でありながら名家の夫人に庇護され上流階級の眼や価値観を得てクリスマスにはディケンズを所望するような男。主人公の造形の捻じれがうまく作用して面白かった。見ようによっちゃ鼻持ちならなくて、妻に「苦労知らず」と言われてしまうのも尤もなんだよな。 しかし読み終わっていろいろと考え込んでしまうのは良い本の証。読んだ人の心に針の穴を開ける。それもまた文学の持つ小さくて大きな役割だ。 読めてよかった。 - 2026年5月9日
シェイクスピアの面白さ中野好夫読み終わった中野好夫は明治生まれの男性ですので多少目を瞑らなくてはならないところはあるにせよ、面白く読みました。 シェイクスピアの時代、劇は見るものでなく聴くものだったこと。(今藤沢文翁さんが声優をつかった演出付きの朗読劇を手がけているけれど結構それに近いものがあったのかも?) 屋外での上演だったので台詞による情景描写、時刻への言及が必要だったこと。 中野好夫さんのシェイクスピア像もなんだか納得させられる。穏やかなコリオグラファーが愛と死とエロスの壮絶なバレエ作品を作ったりすることを思い出す。人間や世界に対して基本的に絶望している人の方が一歩引いて冷静に物事を受け止められるというのもわかるな…。 エリザベス時代からジェームズ一世の時代になり世相も変化し、演劇はそれを映す鏡であること。シェイクスピアの立ち位置はよくわからない、どの考え方、どのキャラクターにも肩入れしていない感じがあると思っていたが、それはあながち間違いではなく、その世界や人間の混沌、矛盾こそイギリスルネッサンス期の特徴であり、シェイクスピアはその申し子であったと。 この随筆のなかで中野好夫さんがシャイロックの台詞を関西弁で訳しているのだがこれがとても良かった!シャイロックの造形がものすごい説得力で立ち上がってくる。 じゃじゃ馬ならしは明治生まれの男の視点では頗る面白い痛快な喜劇であるらしい。これはちょっとあんまり愉快ではないけど目から鱗というか… 河合祥一郎さんが解説で現代の研究などから少し訂正というか註釈をつけてくれているのも有り難い。 中野好夫訳『ヴェニスの商人』を買いました(シャイロックは関西弁ではないが)! - 2026年5月9日
- 2026年5月7日
アルゴールの城にて (岩波文庫)ジュリアン・グラック,安藤元雄気になる - 2026年5月7日
- 2026年5月6日
エイダンをさがしてデイヴィッド・レヴィサン,三辺律子気になる - 2026年5月6日
五月 その他の短篇アリ・スミス,岸本佐知子読み終わった表題作は『五月』だが一年をめぐる12の短篇で構成されているので実はどの月に読んでも相応しいっていう!「物語」ということを感じさせる12篇だった。人が語るということ。必要とする虚構。嘘か本当かわからないけれどこの世界はこの人生はたくさんの物語で溢れてる。どの月に読んでもいいと書いたけれど「物語の温度」をクリスマスに読むのがいちばんいいんじゃないかな(^^) 不思議と音楽を聴くような読書でした。
- 2026年5月4日
アイルランド・ストーリーズウィリアム・トレヴァー気になる - 2026年5月3日
テディが宝石を見つけるまでこだまともこ,パトリシア・マクラクラン気になる - 2026年5月3日
千年の祈りイーユン・リー,篠森ゆりこ読み終わった初イーユン・リー。普通に読みやすかった。 どんな状況下にあっても親子関係というのは厄介なものだし、「恋」という一語に括ることのできないその人とその人唯一固有の関係がある。そういう短篇は好きだ。 だがやはり自由に物が言えないということ、常に抑圧され何かからはみ出せば命の危険があるということ、そういう世界で人々が失うもの、遠い世界のSFのようで現実に隣にあるその世界、あるいは近い将来やってくるかもしれないその世界を思わずにいられない。 新しい言語を手に入れなければ、新しい自分にならなければ、自分のことを自由に語ることもできないというのは重く壮絶なことではないだろうか。そしてそれは中国という国の、その言葉や歴史の重さ、深さでもある。その歴史を言語を愛しつつもときにそれらから解放されて軽やかな新しい言葉で喋ってみたいというのも少しライトな意味だがわかる気がする。 イーユン・リーの作品はもう少し読んでみたいです。 - 2026年5月2日
シェイクスピア 人生劇場の達人河合祥一郎読み終わったシェイクスピアの生涯、シェイクスピア喜劇/悲劇の本質、シェイクスピアとその時代の人々の思想、演劇論、そして、人間とは何か。…今の私の痒いところに手が届きまくる本だった!新書を一気読みとかあんまりしないのだけど…面白すぎて止まらなくなってしまいました。 読みながらメモしたところ↓ 人は必ずまちがえる。なにかしら失敗する。馬鹿なことをするーそれこそが人間性であり、人間らしさだと認識するのが、当時のルネサンスという時代に流布していた人文主義思想だった。ルネサンスの時代思想としての人文主義とは、実用主義的な教育ではなく、全人格的な人間形成に必要な教養を得るために、古代ギリシャ·ローマ時代の古典文化の研究を旨とする。真の学問とは、よりよく生きるためのものであり、そのためには刹那的な目先の利益を追う近視眼的生き方ではなく、自分の死を視野に入れ、死ぬまでに何ができるかを考えなければならない。人間は神のように全知全能にも不死にもなれないのだから、己のいたらぬところを自覚しなければならないとするのが人文主義思想だ。 シェイクスピアの道化は基本的にソクラテスばりに、己の愚を知る「賢い阿呆」という矛盾した存在なのである。 シェイクスピアの喜劇には道化が多く登場する。道化の役割とは他の登場人物たちに自らの愚かさを認識させることだ。中世·ルネサンスにおける道化は、サーカスのクラウンやピエロとは違い、人間の抱える愚の認識の必要性を説く人文主義思想に基づく存在なのである。 オクシモロン 矛盾語法 撞着語法 賢い阿呆 矛盾した内容をあえて結びつけるこの表現は、近代的な整合性にこだわらずに奔放な想像力を行使するシェイクスピアの作劇を特徴づける表現方法だ。 なぜシェイクスピアが矛盾した表現を好むかと言えば、人間は矛盾した存在だという認識があるからだろう。 人間は理屈を超えた存在であり、矛盾のなかにこそ人生の危うさやおもしろさがつまっているのだ。 多くの喜劇で結婚が大団円を飾るのは、自分と配偶者が別々の個人であると考えるような近代的個人主義とは異なり、結婚をして初めて人は一人前になると考える時代だったからである。 「私」という一滴が、もう一滴である夫と一緒になったとき、それはもはや二滴ではなく、分かちがたい大きな一滴となるという発想だ。 恋をしている人間ほど「おめでたい」やつはいないのであり、パックはそんな人間の「めでたさ」を寿いでいるのである。恋は、人間が犯す最高に素敵な愚行なのだ。馬鹿なことをしない人ほどつまらない人はいない。 人間らしさとは何かと言えば、それは「おめでたく」なれることだ。「おめでたく」なれる人こそ幸せになれるのである。逆に、「正しさ」を絶対視して、自分の愚かさやまちがいが認めれない人は幸せになれない。 人間の肉体は土に還る。だから肉体は腐敗する泥のようなものだ。そのはかなさをしっかりと認識するとき、逆に、生きていることのすばはしさが実感できる。シェイクスピアの喜劇は、そんな暗さに支えられた光の劇なのである。 近代社会に道化は存在しない。道化は君主を頂点としたヒエラルキーを前提としたうえで、それを下から突き崩そうとする機能を持つ存在だからだ。シェイクスピアが作品のなかで道化を大いに活躍させて、市民よりもむしろ貴族を主人公に据えたのは、彼の心情がカトリック的な旧世界のほうに振れていたからかもしれない。 物を知覚するとき、プラトンは、心に心像(ファンタズマ)が形成されると考えた。プラトンによれば、この像は水鏡に映った像のようなもので、実体を正確に反映するものではい。このように心像によって物が象(かたち)となって表れてくる過程をファンタジア(phantasia)と呼び、そのラテン語訳のrepresentatioは、のちの時代に哲学や心理学の用語として「表象」(representation)という言葉に発展していった。 このプラトンの考えに基づき、エリザベス朝時代の人は何かを知覚した際、それを心のなかのイメージとして捉え、そのイメージのことをファンタズマ、ファンタズム、ないしファンタジーと呼んだ。いずれも「目に見えるようにする」という意味のギリシャ語「ファンタゾ」から生まれた言葉である。 ただし、知覚以前にイデアの存在を措定したプラトンとちがって、エリザベス朝の伝統哲学は、知覚や記憶に重点を置くアリストテレスの考えに多くを負っている。すなわち、知覚や記憶によって得た情報に基づいて、イマジネーションが心像を形成すると考えたのである。 この場合のイマジネーションとは、今日言う《想像力》ではなく、心像を形成する知覚機能を意味する。 エリザベス朝において、ファンタズマは、はっきりとした現存姓を持つものだった。 この知覚のメカニズムでは「実際」とか「現実」は正確に認識できないものであり、《イマジネーション》が作り出したファンタズマこそ、現実になる。言ってみれば、現実など、見る人によっていかようにも変わりうるファンタズマの総体でしかありえない。 心の目には真実が見える。その機能は、『白雪姫』の魔法の鏡と同じだ。エリザベス朝時代には、鏡には真実を映し出す力があると信じられていた。 ハムレットは、母親を責めるときに、鏡をつきつけて次のように言う。 … また、ハムレットは芝居を打つことでクローディアスが父を殺したかどうかという真実を明らかにしようとするが、それというのも、芝居には「鏡を掲げる」機能があるからだと言う。
- 2026年5月2日
- 2026年4月30日
いつか月曜日に、きっとナディン・ゴーディマ,スティーヴン・クリングマン,Nadine Gordimer,Stephen Clingman,福島富士男気になる - 2026年4月29日
くもをさがす (河出文庫)西加奈子読み終わった待望の文庫化! 数多いる作家にはそれぞれそれを書かずにはいられない固有のテーマがひとつずつ(人によっては複数)あるように思う。西加奈子の場合は「自分の体を、自分のものとして取り戻す」。じゃないかな。自分の心を、自分の信じるものを、自分の怒りを、自分の歓びを、自分の欲望を、自分の魂を。 今作は乳がんが見つかってからの日々を書いたものだが、そこはさすがの西加奈子でがっつりと硬派なノンフィクション文学に昇華している。「ノンフィクション」と「ノンフィクション文学」は違う。後者はあくまで作家の手により創作されたもの。書くこと、書かないことは選択されひとつの作品となる。そしてそこでは西加奈子のワンテーマがやはり鳴り響いている。 だが、乳がん治療のなかで、 じゃあその「自分」とは一体何なのか? というもう一歩先の深淵まで進んでしまう。 今作を単行本で読んだXのフォロワーさんが、爆笑しながら手術室に向かうシーンを取り上げていらしたが、確かにそこはひとつの作品的山場で私にとっても忘れられないものとなった。 そしてそのシーンで西加奈子は自分を自分のものとして取り戻す。 私はボニータではない。 私は花子ではないし私はマイケルではないし私はアストリッドではない。 私を私として認識するには、〇〇ではない、☓☓ではない、他者との比較、他者との線引きが必要なのだ。 それは土地に国境を引き時に分断や対立や争いや憎しみを生む壁となると同時に、自分を自分として確立するために不可欠なもの。 絶対に超えられない、共有できない、理解できないものを、この肉体がある限り私たちは内包している。 西加奈子の核は、書かずにはいられない、作家としての存在なのではないかなあと今作を読んで思ってしまった。 いつか彼女が亡くなり、その肉体が消滅しても、その核は彼女の作品のなかに生き続けるのだ。それが作家であるということなんだろう。 ひとことでは纏められない、様々な思いが湧き上がってきてそれが落ち着くことがない。 作中多くの文学作品の引用が出てきて、読みたい本がまた増えました。 そして西加奈子がこれから何を書くのか、待ち続けたいと思います。 私たちには西加奈子がいる!そう思える同世代の作家が、今生きていてくれて本当に良かったと思う。
読み込み中...
