
白玉庵
@shfttg
2026年7月23日

越境の時 一九六〇年代と在日
鈴木道彦
読み終わった
小松川事件と金嬉老事件での自身の動きの回想。大村収容所がここでも出てきた。
執筆を勧めたのは上野千鶴子で、それは彼女がファノンの講義を通じて著者を認識したことがきっかけ。
圧巻はエピローグで、これが書かれたのは2007年。予想された通りだし、さらに悪い状況になっている。これを打破するのは、「実際、私の《我れ》は、意識にとって、他の人々の《我れ》よりもいっそう確実だということはない。ただ、いっそう親密なだけである」(p16,p242,サルトル)という自我の相対化で自らを開いていくことになる。
公然と戦前の日本を肯定する言説もあらわれたし、「愛国心」の合唱も始まった。「国益」だの「愛国」だのという言葉を恥ずかしげもなく口にするのは、「民族責任」の自覚のはるか手前にある無神経な態度で、国民国家の形成される十九世紀ならともかく、とてもニ一世紀を生きようとする人間のやることではない。私たちは、そういうものが乗り越えられ、解体されていく過程にすでに入りこんでいるのに、今の日本は、一〇〇年前にプルーストがシャルリュス男爵という同性愛者の肖像を通してあれほど痛烈にこきおろした愚か者たちで充満しているように見える。 p240
おそらく私のような考え方を「自虐史観」と罵る人もいるだろうが、そのような人々の目指す「美しい国」は、なんと無責任でなんと醜いことだろう。日本はこれからますます薄っぺらな社会になり、「愛国心」はますます大手を振ってはびこるだろう。それを見ていると私には、日本社会全体がちっぽけな殻に閉じこもって、自分の姿しか目に入らず、他者への配慮も、また他者の目に映る自分の姿への反省もまったく欠いたエゴイストになったような気がする。 p241







