masaya
@masaya
2026年7月26日
歩くという哲学
フレデリック・グロ,
谷口亜沙子
読み終わった
山歩きに自信のある人は、必ずゆっくりと登ってゆく。速さの対極にあるゆっくりではない。ただ、ペースが一定で、均一であるということだ。
スピードの幻想とは、それで時間を稼げると思い込むところにある。計算は一見単純に思える。三時間の代わりに二時間ですむのなら、一時間得をする。それが抽象的な計算にすぎないのは、ある一時間と別の一時間は完全に等しくはないからだ。
急いでいる時、時間はどんどん速くなる。時間が飛び去る、ということは、急いだその二時間のために、結局、一日の長さが短くなるということだ。時間を細かく分割して、その中をやたらと理めようとしてみても、一瞬一瞬は触れ散ってしまう。詰め込みすぎれば、飽和するのだ。
歩いて過ごした一日は、もっと長い一日に感じられる。そういう日には、いつもより長く生きた思いがする。時間の継ぎ目に無理な力をかけず、どの一時間にも、どの一分、どの一秒にも、それそれがゆったりと呼吸できるように、奥行きを持たせたからだ。急げば、時間ははち切れてしまう。
ゆっくりやる、ということは、時間に寄り添うことだ。一秒一秒が、粒となって感じられるほどに。
1瞬一瞬が、露となって結ばれてゆく。小雨が石へと降りかかる時のように。時間がそんなふうにゆるやかに引き延ばされる時には、空間にも深さが宿る。
歩くことの秋密とは、それなのだ。
つまり。定識や飲料の選択肢がごく限られていること、その時々の天候をただ受け入れることしかないこと、規則的に動いてゆく自分の足以外にはなにひとつ頼りにできないこと、そうしたことのおかげで、不意に、ふだんはどれだけ過剰な供給(商品の洪水、無数の交通網、おびただしいネットワーク)に晒されていたかが見えてくるのだ。どれだけ利便性ばかりが追求され、どれだけそれらへの依存症(通信手段においても、買活動においても、移動手段においても)が生みだされているのか。選択というミクロな自由は与えられているが、それらはみな、システム全体を加速させることに資するばかりで、わたし自身はさらにがんじがらめにシステムに囚われてゆく。わたしを時間や空間から解放するものは、わたしをスピードの支配する世界へと追いやっているのだ。苦労して岩のてっぺんに登り詰め、腰をおろしてから、ついに風景を見渡してみる。眼下に広がるすべての農地、家々、森、小道。何もかもすべてが自分のもので、自分のためにそこにあるかのようだ。登ってきたことで、それらを手中に収めたのだ。あとはその喜びを味わうだけでよい。世界を手にした者が、孤独など感じるだろうか?見ること、見下ろすこと、そして見つめることは、所有することだ。しかも、所有にまつわる一切の煩わしさもない。まるで世界を盗んだかのように、その景色を楽しむ。いや、盗んだなどとは言うまい。そこまで登ってくるために、自分で努力したのだから。見晴らすかぎり遠くまで、ずっとはるかな彼方まで、それらはわたしのものだ。わたしはひとりではない。世界はわたしのものであり、わたしのために、わたしと共にある。
散歩の秘められた効能は、このように精神が開かれて、「空いた」状態に置かれることであるが、これは、とかく拘束やこだわりに囚われがちな現代生活において、きわめて稀な状態といえる。
「空いた」状態にあるということは、受動と能動の入り混じった、あの幸福な調和が実現されているということなのだ。魂は、誰に対しても申し開きをする必要がなく、一貫性を迫られたりもしない。世界は、深刻な顔をした系統立った観察者に対してよりも、そのような無償のれの中にある散歩者に対してこそ、そのまったき姿をあまさず見せてくれる。
だが、そうした発見や喜びを得ようとして、散歩がひとつのメソッドでもあるかのように生真面目に散歩に取り組んでみたところで、まずうまくはいかないだろう。そうした発見を得ることができるのは、春の日差しに誘われて、やりかけの仕事もほっぽらかしにして、とりあえず先のことは考えない、という誘惑に喜んで屈した者だけなのだ。そのようにしてみて初めて、そのひとときは無償のものとなり、生の軽やかさを思い出し、魂が、世界と自分とのあいだに自由な調和を見いだす時の甘美さを味わえる。
歩いている人は、とにかく足を動かさねばならないため、とりあえず前へ進んでゆく。それは世界そのもののように、当たり前の真理である。その単調な運動が人を解放する。あれについて考えろとか、これについて考えろとか言われることもないし、ああ考えるべきだとか、こう考えるべきだとかいうこともない。ただ身体的な努力を繰り選しているだけで、精神に一空き」ができる。そうなった時に初めて、ものを考えられる。

