Haruhito "YABUNONAKAーヤブノ..." 2026年7月1日

YABUNONAKAーヤブノナカー (文春e-book)
芥川龍之介の短編『藪の中』(1922)は、ある殺人と強姦事件をめぐって4人の目撃者と3人の当事者が証言するのだが、それぞれの話が矛盾していて真相はついぞわからない。金原ひとみの『YABUNONAKA』では、一つの告発がインターネットを介して拡散され、登場人物や世間で喧々囂々とした反応を巻き起こす。真相は個々の捉え方の中にあり、その解釈に基づいて社会正義や糾弾が行われていく。この小説では『藪の中』のコンセプトを、SNSを中心とするインターネット社会とネットに連なる現代人の心理に拡張することで、現代のネット社会そのものを書き記すような作品となっている。それは、SNSを流れる言葉が人や社会を動かす時代に無力な小説の言葉には何ができるのか、という挑戦のようにも感じた。本作は、その意図への一定の達成を感じられる出来栄えだと思うものの、ネット社会の表象を描くことに終始して、この社会に生きる当事者として不満に感じる部分もあった。 そう感じる理由としては、書かれているネット社会が少し前のフェーズに思えることとネット社会の窮状から逃げ切ることができる世代の人物を中心に据えていることが挙げられる。まず、男女の二項対立の論争や分断、事実よりも自分の認知が優先される物語化、それに基づく苛烈な社会正義の執行は、今日のSNSなどでもよく見かけるものである。しかし、これらのモチーフは2020年前後の映画や論考によく見られたものであり、個人的にはいくつかの作品で満足を得て、もう飽きたテーマでもある。それゆえに『YABUNONAKA』や朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』を”今の物語”と喧伝することには違和感を覚えるし、少し前にも俳優のハラスメント問題に端を発して、SNSで両サイドに分かれて罵り合う人々が見られたが「まだやってるのか…」という印象だった(世間はいつだって数年遅れている)。隠蔽された問題を表面化させるインターネット社会の機能は認めつつも、ネットの磁場は建設的な議論に向いていないし、罪を裁くのは当事者や司法の役割である。体制が不甲斐ないからこそ私刑が横行するわけだが、体制の不備を指摘することと私見を述べることは両立できるものである。そのためには、叱ったり諭すことも然るべき立場の人間が然るべき態度で行わないと加害になるとを理解し、分別を持たないとネット論争のような泥沼のあり様になってしまう。理性的な態度を持つことは、司法が登場してからの社会と人の継続的な課題であったし、誹謗中傷やネットリンチを是とする人々は、司法ができる以前の中世の倫理観に思える。ひょっとしたら人間という生き物の理性の限界なのかもしれない。 次に世代について触れると、作中の木戸も長岡も自分より上の世代の人物である。急激な時代の転換で自己を喪失する木戸も憎悪で先鋭化した長岡も、この時代社会をもがくように生きながらも「死によるフェードアウト」がある人物である。現代の問題をあげつらって去っていくことが可能なのである。対して、上の世代と下の世代の価値観に挟まれた五松、横山、橋津の現役世代には逃げ道もない。上の世代の間違った価値観を引き継いだり、無私に去勢されたり、時代的思想に担ぎ上げられたりして身を滅ぼしていく。作中において未来の希望として描かれているのが、前時代の価値観を引き継がない伽耶、恵斗らの世代である。むろん、この世代の無知さにも触れられてはいるものの良い面も悪い面も解像度が薄く感じる。例えば、新しい世代の新しい言語表現としてラップを登場させることはこの作品に限らずあるのだが、別にラップ自体は新しいものではないし、ラップを介して若い世代にマチズモ思想が継承されている面もあるのにあまりに無邪気で表層的である。希望と呼ぶには、この世代の人物像や文化、価値観の解像度が他の世代の描き方と比べて弱すぎるのである。未来への希望と言うとわかりやすいハッピーエンドを欲しているかのように思われるかもしれないが、この作品内にだけ通用するものでもいいので、たとえば正しさや救いを提示して『それでもこの社会に食らいつき、生きていく価値』を示さないと、ネット社会の表象を現状追認として描いた作品の域を脱しないと思うのである。若い世代の無難な未来設計をエピローグで語られても、おまけ以上の効果を感じられないのだ。 物語の最初からずっと正の方向に推進している唯一のキャラクターが西山小夏である。てっきり彼女や彼女の言動・作品が未来への可能性の体現になるのではと思い読んでいたが、その実像は読者に委ねられている。長岡の死を受けて長岡と同じ方向に進むのか、純粋な小説の力で世間を変えていくのか、志半ばに潰えていくのか、未知である。映画の話になるが、ギヨーム・ブラックの『みんなのヴァカンス』(2020)でも未来の先行きの暗さや社会の救いのなさが描かれるが、それでも「未来へ飛び込むこと」の重要性がある登場人物の行動として示されており(映画の原題は『À L'abordage』、直訳で『強襲部隊』)、過酷な現実と向き合いながらも未来を信じたくなるような微かな可能性を観客に与えている。だからこそ、西山というキャラクターの落とし所には消化不良を感じる。なにか私が気づいていない意図があったのかもしれないが。 一方、長岡のようなキャラクターを描ききったことは素晴らしい。長岡と一哉の心理的搾取な恋愛関係は、木戸と橋山の性的搾取な恋愛関係の写し鏡になっている。木戸が告発されたように、将来的に長岡が告発される可能性が示される。男性を男性というだけで性犯罪者予備軍と見做し、あるいは意見を持たないものさえも共犯者と罵り、言論封殺してきたことのバックラッシュが起こり始めているのが現実であり、小説が描くことを留保した部分・段階でもある。現実的には、長岡の行いや思想は分断を深める危険性の方が高いだろう。それでも、その憎悪や怒りを小説家として、女性として描く必要性と気概を感じさせるものだった。頭で読ませるような小説ではあったが、読んで何も残らない小説よりは楽しめ、読後にあれこれ考える日々が得られた。
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