
yomitaos
@chsy7188
2026年7月28日
吸血鬼
遠野遥
読み終わった
遠野遥が描く物語に出てくる男性は、基本的にみんな親切で、物腰柔らかな印象だ。一見するととても良い印象なのだが、よく見るとどこかズレている。なんというか、血が通っていない。
例えば身近な人が不幸に遭い、回復の見込みが限りなくゼロに近いと医師に告げられた男性について。医師から速やかな治療停止を求められたわけでもないのに、「自分が中止を願い出れば、この救命救急センターは次の患者を早く受け入れることができるし、物的資源の無駄遣いも防げる」と考え、治療中止を了承する。
例えばアイドルのコンサートに行き、開演が15分も遅れていることに気づいた男性について。5,000人の観客がいるとすると、失われた時間は5,000×0.25=1,250時間。これだけの時間があれば、社会に有益な何かしらのプロジェクトが完遂できたはず。これは国家的な損失なのかもしれないと考える。
どちらも論理は間違っていないが、人間としてはどこか間違っているように思える。これは女性の人生を決定するのは男性であるという、管理社会が舞台であることを差し引いてもどこか違和感がある。確かに現実の日本よりも酷い女性蔑視の社会ではあるが、SF的とまでは言えない。そう遠くない未来に訪れてもおかしくない程度の管理社会なのだ。だから、この男性の思考に違和感があるのは物語のせいではない。
女性には、星座の王道十二宮をモチーフとしたランクが付けられる。「おひつじ」が最も良く、「おうし」「ふたご」と続き、「みずがめ」「うお」までの12等級がある。基準は有り体に言えば美醜と若さだ。そもそも「おうし」までの高ランクにつけるのは10代半ばの中学生までで、どれだけ美しくても20代を過ぎると基本的に「ふたご」以下となる。
中等教育を終えると、男性側から一方的に選ばれて結婚していくのだが、女性側に断る権利はない。もし強硬に拒否しようものなら、その女性はランク外の「へびつかい」として扱われる。もはや人権というものが存在するのかも怪しい。「悪い子にしてると鬼がやってくる」といった脅し文句は昔からあるが、この物語で女性は「良い子にしないとへびつかいになるよ」と言われて育つ。まさに人外として扱われる、恐怖の対象だ。
このような仕組みが根付いてしまう社会だから、男性側の傲慢さには反吐が出る。…のだが、権力を傘に人権蹂躙に励む暴君のような存在は意外と出てこない。女性をモノとして扱っても問題ない社会なのに、可能な限り手厚く、優しく扱おうとする男性が語り手のひとりでもある。だから、「おお、体制に抗おうとする進歩人なのか」と一見思えるわけだが、冒頭のとおり様子がおかしい。
差別や偏見から自由なふりをしているが、それは自身が特権階級にいるから振る舞えるだけであることにまったく気づいていない。妻が「ふたご」に落ちてしまうことをそれほど気にしていないと言いつつも、「みずがめ」や「うお」になってしまったときは考えさせてほしいと宣う。そのことに微塵も悪意はなさそうだ。
彼の優しさは性格ではなく、磨いた技術によるものだろう。もっというならマニュアルだ。「こういうときはこうするのがより親切である」というマニュアルに沿った行動を取っているだけで、ベースにあるのは無関心であり、他人事なのだ。読んでいるさなか、エルサレムのアイヒマンを何度も思い出した。
現実社会は「個人→世間→社会」の順につながっていると私は考えているが、この物語に出てくる男性には「世間」が無い。世間を意識しなければならない階級にいないので、ダイレクトに社会につながっているように思える。冒頭で引用した歪んだ論理にも、世間の要素が欠けている。よく「政治家には一般市民が見えていない」と言われるが、これと同じかもしれない。世間への関心がなければ、世間からの声が人生に悪影響を及ぼさないほど安定しているのであれば、こういった思考になってもおかしくない。
この物語が映画化したら、容易く純愛物語として表現できるだろう。常に妻を思いやる優しい夫と、献身的な妻。「階級」の差を乗り越えた愛。いくらでも改変できそうだ。今の日本で力を持っている人間は、家父長制を支持していると言い切っていい。この人たちからすると、本書の物語に違和感を持たないかもしれない。同じ物語を読んでいて、「純愛」と受け止める人と「ホラー」と受け止める人がいる。それこそ文学の面白さだとは思うが、正直なところもう笑えない。