
Ayako
@aya_rb
2026年8月2日
断片的なものの社会学
岸政彦
読み終わった
心に残る一節
寝る前の読書
一編ずつ、と決めて読んでいたんだけど、ついもう一編読みたくなってしまうこともあった。
岸さんが時に自分の断片も差し出しながら、見えるものの陰にあるもの、語りの中からこぼれ落ちるもの、こちらに裏側を見せて床に落ちているものをめくったときに見えたものを、並べてまた言葉にしていくような文章。
社会って、世界って不思議だ。
何も言い切ることができるものなんてないし、曖昧で不確実で、自分の意思でコントロールできるものなんてほとんどないに等しくて、たとえ幸せを感じる瞬間があったとしてもそれが永遠につづくわけもなくて、それなのにこの社会で生きるには、自分を律して自分に責任を持ち、成功や成長や幸せになることが目標で、それができなければ自己責任であり、能力を持たないこと、不幸であることは侮蔑されていく。
だけどそれぞれが持って生まれ落ちたものも違えば、社会が変わって意味をなさなくなるもの、奪われるものも多い。
社会を変えてしまうのは、天災や人災、より強い力を持つものの意向だったりして、私たちは常にその渦の中で翻弄されていて、それなのにその翻弄の原因を見当違いの方向に求めて、差別をしたり排外主義やミソジニーに陥るのかもしれない。
「私たちができるのは、社会に祈ることまでだ。私たちには、社会を信じることはできない。それはあまりにも暴力や過ちに満ちている。」
生きる上でできることは、ただどうにかこうにか生きていく、ということだけなのではないかと思う。曖昧さ、不確実さに耐えながら生きていく。ネガティブ・ケイパビリティのことも少し思い出した。
「エミール・デュルケムは、私たちが「神」だと思っているものは、実は「社会」である、と言った。」
もっと言えば、実はわたしたちが「社会」と思っているものは自分とは異質な他人、なのかもしれないとも思った。
わたしたちは神、つまり社会に万能を求めていて、万能なはずのものが自分に不遇や不幸を与えるなら、社会、つまり異質な他人が間違っているのだ、と思い、その異質な他人というのは、外国籍の人であったりマイノリティだったりするのかもしれない。
社会がどちらの意味に映るとしても、社会に対して祈ることしかできないのだと思う。社会を排するのではなく攻撃するのでなく、祈り、ただただ働きかけていく。




