
ジクロロ
@jirowcrew
2026年8月7日
コンヴィヴィアリティのための道具
イヴァン・イリイチ,
Ivan Illich,
渡辺京二,
渡辺梨佐
読んでる
学習のバランスは劣化する。つまり“教育”のほうに傾いてしまう。人々は自分が教えこまれたことは知っているが、自分のすることからはほとんど何も学ばない。人々は自分たちには”教育”が必要なのだと感じるようになる。なにかものを学ぶということは、こうして商品となる。そしてあらゆる商品と同様に、市場化され希少なものになる。この希少性の性質は教育がとるさまざまな形態によって、高い代価を払って隠されている。
(Ⅲ 多元的な均衡)
身体からはなれ、記号になること、それが教育。
自分という身体(身)をもって知ること、それが学習。
教育は高くつく。そして「よい」教育ほど高い。
「よい」とは、(「ただ」の)言説であり、希少性であるということ。
「ただ」こそが高くつくということ。
当たり前ながら記号は購入可能であり、交換可能である。記号は市場に「躍り出る」、そして踊らされる。
身体に、操りの糸がついていないか、隈なくチェックすること。
身体の振舞いに違和感を感じるとき、操りの糸の箇所。その操りの糸こそが「教育」の成果であるということ。
ただし、その操りの糸が、やがて自然に、馴染むように消えていくだろうと感じられるときは、その糸の動きに身を委ねること。
それを「学習のバランス」と言うのだろう。


