
いぬい
@inuiru
2026年8月5日

生物から見た世界 (岩波文庫)
クリサート,
ユクスキュル,
日高敏隆,
羽田節子
読み終わった
毎日の昼休みにちまちま読み進めたんだが毎回「何を言っている……?!」てなっていた。
雑にまとめると客観的にそこにあるとされている環境をそのまま見ているということはなくて、それぞれの生物に主観的な現実がある……ある、というよりも、主体からの知覚によって初めて現実として立ちあがる、みたいな話。知覚や作用の対象にならないものは、その生物の世界には存在しないのと同様だ。
マダニの話が有名らしい。
マダニは哺乳類が発する酪酸の匂いを知覚して、その体めがけて落ちる。あとはその動物の体温を知覚して、血を吸う。マダニが知覚するのは相手がどういう生物か、みたいなことではない。酪酸の匂いがあるかどうか、温かいのか、つめたいのかどうか。この知覚の少なさが、マダニの世界を確実なものにする。しかも「酪酸」の信号を受け取るまでのあいだ、マダニは活動しない。マダニの時間は信号を受け取るまで停止していると言える……とのこと。
といった感じでウニやハエやミミズの話がつづく。私たちはおなじ世界に生きているようではあるが、それぞれの前に立ちあがっているのはまったく異なる世界なのだ。
……って話だよね……と思い始めたあたりで「魔術的環世界」の話が始まったときは思わず「おい?!?!!」となったが……「魔術的」というのはここでは、客観的にはそこに「ない」はずのもの……つまり本来なら知覚や作用の対象にならない……ならないと言うか、ないものはない……ものが、「主観的な世界」には存在し得るって話。
え、ということは、他者から「幻覚妄想」と診断されるばあいであっても本人の世界では「現実」ということ……?! と思ったが、まあここでそういう病理の話はしていない。
面白かったのはウニの棘がそれぞれ独立して動いているが、お互いに傷つけあうことはないってくだり。私はたまにじぶんの舌をかむことがあるので「ウニ以下」と思った。
あと、ひとつの客体が複数の主体の世界でべつのものと受け取られていることもある。一本の木が巣穴であったり不気味なうろであったり木陰であったりするみたいな。これは分かる。
アンディ・クラークの「経験する機械」によれば、私たちが「こころ」と呼ぶようなものは世界と干渉しあっており、「私」というものは世界と接続されている……みたいな話だったが、ユクスキュルの話はちょっとちがっていて、「私」がいるから「私の世界」が現れる……っていう。そして、すべての生物がそれぞれの「環世界」で生きている。そう思うと、そのへんの虫に向ける気持もちょっと変わってくるな(マダニは厭だが)。
訳者あとがきが分かり易かった。それにしても戦時中に動員先でこの本を読んだというエピソードはなんか趣があるな……。
p165
" 人々が「良い環境」を築こうと願っている現在、このことはきわめて重要である。「環境」はある主体のまわりに単に存在しているもの ( Um gebung) であるが、「環世界」はそれとは異なって、その主体が意味を与えて構築した世界 ( Um welt) なのだからである。
「環世界」というユクスキュルのこの認識は、「環境」ということばが乱れ飛んでいる現在、ますます今日的な、そしてきわめて重要な意味をもつに至っている。
人々が「良い環境」というとき、それはじつは「良い環世界」のことを意味している。環世界である以上、それは主体なしには存在しえない。それがいかなる主体にとっての環世界なのか、それがつねに問題なのである。"


