
本屋lighthouse
@books-lighthouse
2026年8月9日
知覚の宙吊り(986)
ジョナサン・クレーリー,
大木美智子,
岡田温司,
橋本梓,
石谷治寛
読んでる
わからん祭
日常的な視覚経験において、身体が連続的に存在しているのに、その人の視覚的な知覚から事実上自分の身体が消去されているということは、ほとんど意識されることはない。(p.255)
もうずっとわからんまま読み続けているが、この部分は昨日の「蛸みこし」でまさに体感したことだから理解ができた。私は蛸みこしがうまく写るように構図をあれこれ考えたが、そうして撮られた写真に私の身体は腕のみがあらわれることになった。また、この蛸みこしは「みんながなにをしているか」を見ようとすると自分の手元がおろそかになり、自分の手元に集中するとみんなの動きに注意が向かなくなる、というまさに本書の言う「注意と散漫」を体感する代物でもあり、本に書かれていることはほとんどわからないのに、別の体験によって理解が生じる、しかもそこには時間差がある、という経験だ。これこそが読書だった。ファストで「わかる」がウケる=存在意義となるSNSでは生き残れない存在、スローで「わからない」の体現としての本=読書。それはこうして身体を動かすことによって始まる。始まったからといって「わかる」とは限らないのだが、それを楽しむことからしか本=読書の復興は始まらないだろう。


