知覚の宙吊り(986)
41件の記録
本屋lighthouse@books-lighthouse2026年8月18日わからん祭浴びたPOLA美術館に行ったところ、本書で書かれていたことのすべてを浴びたような感覚になった。相変わらずわからんが、わからんのまま解像度が上がることもあるらしい。










本屋lighthouse@books-lighthouse2026年8月13日読み終わったわからん祭わからんの濁流に呑み込まれたまま読み終えた。感慨深い。いつかどこかで「あれはそういうことだったのか」となるのだろう。すばらしき人生!








本屋lighthouse@books-lighthouse2026年8月12日読んでるわからん祭わからんの濁流のなかにかすかに見つかるわかるを求めて三千里。 自動運動の芸術が、ファシズム、機械化された戦争、あらゆるたぐいの国家的プロパガンダと時期を同じくしているのは、このレヴェルにおいてだったのである。(p.413) 完全に断片化させた読みで本筋とは異なる「わかる」なのだけど、自動運動の芸術=映画などが20世紀前半にもたらした影響は、21世紀前半の現在においてはSNSがもたらしているように思える。「おすすめ」が無限に流れてくるタイムラインから視線を切り離したりスクロールする指をとめたりすることは、すでに「受動的オートマティスムのモデル」(p.412)の主体にさせられた私たちには難しく、世界情勢もまた100年前と類似したものになっている。わかりたくないわかるだったな......。



本屋lighthouse@books-lighthouse2026年8月9日読んでるわからん祭日常的な視覚経験において、身体が連続的に存在しているのに、その人の視覚的な知覚から事実上自分の身体が消去されているということは、ほとんど意識されることはない。(p.255) もうずっとわからんまま読み続けているが、この部分は昨日の「蛸みこし」でまさに体感したことだから理解ができた。私は蛸みこしがうまく写るように構図をあれこれ考えたが、そうして撮られた写真に私の身体は腕のみがあらわれることになった。また、この蛸みこしは「みんながなにをしているか」を見ようとすると自分の手元がおろそかになり、自分の手元に集中するとみんなの動きに注意が向かなくなる、というまさに本書の言う「注意と散漫」を体感する代物でもあり、本に書かれていることはほとんどわからないのに、別の体験によって理解が生じる、しかもそこには時間差がある、という経験だ。これこそが読書だった。ファストで「わかる」がウケる=存在意義となるSNSでは生き残れない存在、スローで「わからない」の体現としての本=読書。それはこうして身体を動かすことによって始まる。始まったからといって「わかる」とは限らないのだが、それを楽しむことからしか本=読書の復興は始まらないだろう。


本屋lighthouse@books-lighthouse2026年8月9日読んでるわからん祭孫引き。 強く集中された注意、受動的で鮮明な想像力という特異な条件において、これらの麻痺させられ熱狂した人々は、必ずや新しい環境の魔術的魅力に屈することになる。彼らは見ているものを何でも信じる。そして彼らのこの状態は長いあいだ継続する。ひとりで思考するのは、他人の精神を通して思考するより、つねにいっそう疲労するものである。そのうえ、人が、いかに活気に満ちた環境を生き、高度に張りつめて多様化した社会を生き、新鮮な視覚、新しい書物や音楽、つねに更新される会話をいつも提供されようとも、その反対に、彼は次第にあらゆる知的努力をやめるようになる。こうして彼の精神はますます愚かになり、同時にますます興奮させられて、私が述べているように、夢遊病者になるのである。(p.274-275) SNSと現代人の話すぎるが、これが書かれたのは1890年。ガブリエル・タルド『模倣の法則』。



本屋lighthouse@books-lighthouse2026年8月6日読んでるわからん祭「すなわち、芸術は表象に限定されるものではなく、「筋肉と諸感覚に対する暗示作用を行使する」ことによって、思考よりむしろ運動を伝達するものである、という主張である」(p.207)というのはつまり、フランツの曲を聴くと踊り出してしまうみたいなことかい⁉︎ Take me out!
本屋lighthouse@books-lighthouse2026年8月5日読んでるわからん祭スーラの絵画作品『サーカスのパレード』を題材に論じられているところを読んでいるが、この作品がなんかすごそうだということのほかにはなんもわからず、わからんすぎて興奮している。



本屋lighthouse@books-lighthouse2026年8月3日読んでるわからん祭次に考察の対象となるのは、マックス・クリンガーの『手袋』の連作である。この作品で展開される物語的状況は、マネの絵画のそれとまったく同じものである。すなわちそこでは、余暇にまつわる環境のなかで、流行の装いをした男女が公の場であいまいなやりとりを交わし、自己を提示しているのである。(p.154) ただならぬ「えっち」を感じたのだが、だれか判定してほしい。難波氏の本を読んだだれか......。
本屋lighthouse@books-lighthouse2026年7月30日読んでるわからん祭あるものへの注意が深まると、それ以外のものへの意識は散漫になっていく、そしてあるものへの注意も続けることは難しく、容易に別のものへと移りゆくものである、といった感じのことが書かれているテキストを、半分寝ながら読んでいる私の意識=注意=集中もまた、散漫で不連続なものである、と言える、そういう話ですかクレーリーさん!?








本屋lighthouse@books-lighthouse2026年7月28日読み始めた『スローメディア』の次に読むのはどう考えてもこれで、しかしその中身の難しさにひいひい言いながら、どうにか読み進めている。とにかく「注意」というものは不完全で、注意して見ているつもりのものでもその対象の「すべて」を「正確に」知覚することは不可能だし、そもそも「注意」を正確にあるひとつの対象に向け続けることも難しい、みたいなことがおそらく書かれている。という話を私はガストで、後ろの席ではだれかがパレスチナの話をしていて、目の前ではひろこさんが「ポテチ食べたくなってきた」とか言いながら勉強しているのを、本を読みながら知覚してしまっている。注意散漫。



柿内正午@kakisiesta2025年6月10日読んでる二章まで。面白いなー 注意と散漫は、同時に成立したものであり、切り離すことはできない。特定の何かに注意を促すような管理の発想が片やあり、しかし、それに過剰に順応してしまうと、むしろ過度の注意によって対象の統一的な認識は崩壊してしまう。この両義性が繰り返し言われる。







柿内正午@kakisiesta2025年6月2日読み始めた@ 本屋lighthouse 幕張支店『美学入門』、『スロー・ルッキング』につづく注意本はこちら。しかし買った本をこうも立て続けにすぐさま読むというのは珍しい。一個前の本屋lighthouseでの買い物のほとんどはまだ読んでいないというのに。



























