
あんどん書房
@andn
2025年3月31日

随風 (01)
あをにまる,
ササキアイ,
仲俣暁生,
作田優,
円居挽,
北尾修一,
友田とん,
宮崎智之,
岸波龍,
オルタナ旧市街,
早乙女ぐりこ,
柿内正午,
森見登美彦,
横田祐美子,
海猫沢めろん,
竹田信弥,
草香去来,
西一六八,
野口理恵,
鈴木彩可
読み終わった
@ 電車
随風感想(全)
※開くとスクロールがめちゃくちゃ面倒になるので注意※
まずモノとしての良さ。本の雑誌より少し厚いぐらいなのだが、紙がしっかりしてる。ふつうに単行本の本文用紙だと思う。「随風」のロゴも丸っこくてかわいい。なぜかペンギンを連想する。
お値段は文芸誌にしては高い。が、それも当然。なんと広告が一切ない。だから雑誌って感じがほぼない。普通に単行本。本文も他の文芸誌よりゆとりがあり、フォントも大きい。親切設計だ。
宮崎智之「僕が書かなければ、おそらく誰かが書く文章」は、いろいろ迷って書けないでいる人の背中をそっと押してくれるような優しい文章だった。
自分だけしか書けない文章を目指すのも、それはそれで素晴らしい。ただし随筆には陥ってしまいがちな罠(たぶん、我が強すぎて他者を受け入れる余地を閉じてしまう、みたいなことだと理解した)がある。そういう変なこだわりみたいなのを手放させてくれるスタンスが、「自分が書かなければ、おそらく誰かが書く」なのではないか——。
これ、随筆だけじゃなくてあらゆる創作に言えることだと思う。自分が描かなくても誰かが描くマンガ。自分が作らなくても誰かが作る音楽。
何かと個性を求められ、少しでも似通ってたりするとパクリだとか言われがちな昨今。この考え方は何かを解きほぐしてくれるんじゃなかろうか。
平林緑萌「船出にあたって」は創刊のことば的な位置付けの文章。森見さんへの熱いリスペクトが語彙の節々から伝わってくる。字源を辿って気の利いたことは言えないと書いた後にちょっといいこと言ってるのがにくい。
ここから随筆特集「友だち」。で、よくよく見たら扉が表紙絵の部分拡大で、ちょうど二人の人物が向き合っているところが切り取られている。一方で「批評」の扉にはちょっと離れたところから見ている人物が切り取られていて、もしやこの表紙絵は『随風』自体の構成を示しているのか……! と、シンプルながらの奥の深さに感動した。
浅井音楽「ばしばし飯田橋」。浅井さんと言えばポムポムプリンを投げる人のイメージだが、ALTに隠されていた才能がネタだけで終わらずに広がっていくのが面白い。
浅井さんらしい、ちょっと物語風味な、ほっこりしつつ切ない後味の話だ。
親よりもっと上世代の人に対しての方が意外と本音が言えるみたいなの、あるかもしれない。
海猫沢めろん「友達がいない」。海猫沢さんの文章はたぶん初めて読む。「トモダチ」という言葉から高校時代の暗い記憶を思い出す一方で、低学年の頃に仲良くしていたが疎遠になってしまった子のことも心に残っている、という話。「友達」って、なんだろうなぁ。難しいよなあ。
自分もなかなか「友達」とか「親友」とか言えないというか、なんか相手はそこまで思ってないかもしれないなという遠慮があって「知人」って言いがち。別に距離を置いてるわけじゃないのでご了承ください。
オルタナ旧市街「明かりにもお砂糖にもなる」。連想的な文章。親戚の同世代の子どもより、親の友人といった大人の方が好きだったという。子どもならではの大人への憧れ、みたいなの、なんとなくわかる。自分はかなりの人見知りだったので最初は隠れたりするけれど、でもやっぱり構ってほしくて、楽器を出してみたり百均の手品をしてみたりして様子を伺う……という面倒な子どもだった。今も昔も「あそぼ」って言えない。
かしま「オセロ」は家族でも恋人でもない、真夜中にだけ会っていた女性についての話。描写がどことなく春樹みを感じる。短編小説としても読める作品だなあと思う。
岸波龍「Yへの手紙」。この短い文章の中によくこれだけの要素を入れ込んで接続できるなぁと思う。小林秀雄から大岡昇平へ。そして武田百合子に横光利一に山城むつみに双子のライオン堂に……と文学の周りをぐるっと廻ったのちに、自身の友人である「Y」のことを想う。ものすごくテクニカルな文章だ。
ちなみにここに出てきた作家は一人も読んだことがないので、死ぬまでに読めるようになったら良いなあと思ったりする。てかまずは『ゆきてかへらぬ』見るべ。
早乙女ぐりこ「宛先のない日記」。自分の文章を読み返すのが好きだという早乙女さんが、唯一読み返せないでいる日記についての話だった。悪意というよりノリか何かで残酷なことをする。子どもってほんと怖い……。
ササキアイ「ディア・エア・フレンズ」。繋がりをめぐる3つの話が流れるように書かれている。いないけれど、いる。みたいな、そういう詩が谷川俊太郎になかっただろうかと思った。
つながれないことに寂しくなてしまうとき、そういう「エア」な繋がりも感じられたら、もっと幸せに生きられるのかなあ、なんて思ったりする。(一方で『いなくなくならなくならないで』のこともちょっと思い出したり)
作田優「完璧な設定」。恋ができないことを退屈に思って、友人に(本当は好きではないけれど)好きな人を選んでもらっていた、という話。事実は小説より奇だ。そんな経験がある人もこの世の中にはいるんだなぁ〜! という新鮮さを大いに感じた。
鈴木彩可「私たちは、砂にならなかった」は後輩との思い出話。永遠じゃなかったとしても、今もこうしてそれぞれが愛されて生きているっていうのは素敵だなぁ。
竹田信弥「連れション人生」は、友達のおかげで踏み出せた様々な一歩の話。「誰かとなら遠くへ行ける」。こういう友情はうらやましい。眩い…。
自分もあらゆることに関して誰かの後押しが必要なタイプで、その上押して頂いたのに「結局これは責任を誰かに押し付けているだけなんじゃないか」と卑屈になって動かない駄目さなので、見習いたい。
友田とん「直接は手に入らないもの」は院生時代の話。ルームシェアしながら、『20世紀少年』の考察で盛り上がっていた日々を書かれている。めっちゃ青春! 憧れるなぁ〜。
友田さんは長い作品がお好きなのかな。いつか「失われた時を求めてを代わりに読む」とか、書いてくれないかなぁ。
西一六八「マウンテン藤さん」。SNSで繋がった趣味を共有する人との友情が、太宰治と織田作之助を重ね合わせるように描かれている。良かったぁ〜という気持ちになる。やっぱり、趣味で繋がれるって素敵なぁ。
野口理恵「夜道でたまに思い出す」。怒ると笑ってしまう癖と、人前でした最後の喧嘩について。
友達ってなんだろうなぁ。感情を出すのが良いことなのか、抑えるのが良いことなのか。色々考えさせられる。
自分は怒りに対してあまりにも敏感で、怒りの前ではもう何もできなくなってしまうので、できればみんな怒らないでいて欲しいなぁなんて思う。(もちろん、正当な権利を主張するための怒りは必要だと思うが)
随筆コーナーは以上。どの作品も、読んだ後にほわーっと気持ちが浮遊する感じがあった。書きすぎない美意識みたいなところは大いに見習いたい。
批評コーナーに入る。
柿内正午「随筆時評 第一回」は、エッセイはこうではなくてこういうふうに書かれる(読まれる)のが良いのではないか…という提案として読んだ。ここで批判されているエッセイが具体的にどういうものなのかはあまり分からないが(強いて言うならば、主観に対して無批判な文章…?)、そういった表現に陥らないための方法として「おしゃべり」の可能性について触れられている。
なんとなくだけど、くどうれいんさんが古賀及子さんとのトークイベントで仰られていた「人々を文章で率いたくない」というあの感覚なのかな、と思った。(この感覚があるからエッセイと小説の表現を使い分けられているのかもしれない。どちらも書く人の捉え方みたいな話はもっと聞いてみたい)
仲俣暁生「ペーパーバック2・0としての軽出版」は、1920年代のペーパーバック革命を踏まえつつ、現在の重出版(普通の商業的出版)システムの崩壊後における軽出版(ZINE、薄い本などのPOD による書籍制作)の可能性が書かれていた。
今のところまだ文庫本よりZINEの方が高いけれど、いずれ下がってくるのかなぁ。あるいは単純に長いものを読む人がいなくなって薄く薄くなっていく方が早そうな気もする。
文庫や新書にもカバーがあるのは再販委託という日本特有のシステム故だと初めて気付かされた。新装版ってそういうこと。
横田祐美子「わたしがエッセイである」。ここでも扱われるのは卓越的な「わたし」だったりエッセイの「ほんとう」らしさについてだ。
〈書き手が/エッセイを/書く〉のではなく、〈エッセイが/書き手に書かせている〉あるいは〈「わたし」が/書き手に/書かせている〉(P111)。これはつまり中動態ということでしょうか。
要するにこれは「筆が乗る」とか、そういうことなんじゃなかろうか。書き手が全ての要素をコントロールしているのではなく、謎にドリブンしてしまって生まれてくるもの。それがエッセイ。かもしれない。
モンテーニュの時代から「自分語り」は嫌われてたんだなぁ〜。
続いては座談会「高松にて、城崎にて」。『随風』の版元、書誌imasuから以前に出ている『城崎にて 四篇』を執筆したメンバーが、文フリ香川終わりに喫茶店で行った座談が収録されている。随筆がテーマの雑誌の中ではちょっと浮いているような気がしたのだが、後半の「先輩作家たちが後輩にガチアドバイスする」展開がめちゃくちゃ面白くてどうでも良くなった。「森見フォロワーから大成した人はいない」とか、残酷な事実が……(確かに自分もよく「森見さんっぽい」なんて形容詞的に使ってしまうわけで。。)
北尾修一「編集していない編集者の編集後記」はタイトルだけですでに謎が深いけれど、内容も編集後記…ってか詩じゃん!という感じで謎。たぶんあえてエッセイを書かなかったんだろう。いや〜、北尾さんがどんなふうにエッセイを読んで編集されてるのか、知りたかったなぁ。(それは日記を読めば良いのだろうが)
清志郎は調べて分かった。
次のページは執筆者のプロフィール一覧。卒業文集か漫画雑誌の一言コメントみたいな一文が入っている。岸波さんの戯曲が演劇化されるとのこと。気になる。
最後の最後はほんとの編集後記。
平林さん。本誌は全部読んでくれる方がある程度いると想定している……とのこと。実はここを先に見てしまったので通読しました。いや、見てなくてもしただろうけど。
宮崎さん。随風の創刊は近代以降の随筆を「散文芸術」に位置付ける第一歩……とのこと。散文っていうと散文詩を思い浮かべるけど、散文芸術としての随筆と詩の違い、みたいなところはどうなっていくのだろう。
早乙女さん。随筆の著者に感じる親しみと懐かしさについて。やっぱり崇拝(あるいはパパラッチ的な関心)じゃなくて「友だち」的距離感が随筆の読み方として良いんだろうなぁ。
個々の随筆に関しては、「突き放し系」と「共感系」で割とはっきり分かれていたような気がする。随筆の文芸誌の創刊号への寄稿……ってなったらみなさんそれぞれなりに考えての作品だっただろうから、それぞれの作家の随筆へのスタンスが現れてたりするんじゃないかな〜と思ってみる。







