ごうき
@IAMGK
2026年8月12日
饗宴
プラトン,
久保勉
読み終わった
「人の代には平和(やわらぎ)を、
海原には鏡なす静けさを、
暴風(あらし)には休息(やすみ)を、
憂き身には塾寝(うまい)を
もたらす者はエロスである」
古典にも触れなければならないと思って手を出した。基礎を固めることは重要なので、古典から頑張って勉強していこう。ちなみに私は歴史を知らない無学な男であり(俺は過去を振り返らない!)、プラトンが紀元前の人物ともまったく知らなかったので、イエス・キリスト誕生の400年前からこんな思想があったのかと驚いた。すごいなあ。
「愛」とか「美」とか「徳」とか、未だ大人になりきれていない自分を誘惑するような文字ばかりが連なっている(そろそろ大人ににならないと)。古代ギリシアでは「徳の高い人物になる=美」という図式が成立しているが、徳や善悪を問う現在、それはもはや成立はしない。とはいえ、私の思想は本書から善悪(徳)を取っ払っただけであり、通づるものがあるな、とも思う。愛にはやはり確かな能動性が潜んでいる。そして愛こそが最も人間らしい営みだ。これは本書の「愛される者が愛者に自発的に服従するのは屈辱的ではない」「エロスは最も古い神であり特別だ」という視点と対応している。何かを愛せるというのは、とても幸福なことだ。
本書はソクラテスとその弟子らによる愛をめぐる対話であり、神話をもとに展開されるのだが、その中でソクラテスは「愛はあらゆる者への愛なのだろうか?欠乏しているものに対してのみ存在するのでは?」と提議する。彼はアガトンのエロスへの賛美に「愛には何かを求めるという性質があり、また、神々の世界も美への愛によってその秩序を保っている。ではエロスは美を欠いているのでは?しかも善きものが美であるから、エロスは善くないということにならないか?」という三段論法をかますのである。鋭いと思う。確かにそうだ、確かにそうだ。これを読んで私が思ったのは、愛が獲得という性質を含んでいるのかということ。私はそれを恋愛に準えて、「自分の中にいる相手の像を欲する」のが恋、「相手そのものへの欲(所有欲に限らない)」が愛だと考えているから、そもそも定義が違う。私の考えること愛には、「相手を獲得する」という要素がない。しかしこの定義には、「果たして本当の相手を知ることは可能なのか」という疑問が残る。それに対するカウンターとしては「そう在る試みこそ愛なのかもしれない」という苦し紛れなロマンチストみたいな返答しかない。うーむ、どうなのだろうな、もっと愛に関する本を読まなければならない…。

