
chika
@koitoya
1900年1月1日
夏帆
村上春樹
今回特に気になったのは、現実とフィクション、どちらが主人なのかということ。
単純にフィクションを通して自分の現実を見つめ直すというだけの話ではないと思う。
現実を理解するためにフィクションを使っているうちに、フィクションのほうが現実よりも強い現実になってしまう……というのもまたそれだけではない。
私たちの生きている世界は、物語で溢れている。「母親ならこうする」「娘ならこうする」
そうした物語を、自分で作っているだけではなく、他人から渡され、社会から与えられ、それを知らないうちに自分の中に取り込んでいる。
今回母親殺しの物語なので、父親殺しの物語として『海辺のカフカ』を思い出した。
カフカには、父親から「父を殺し、母と姉と交わる」という呪いのような物語が与えられており、カフカはその物語から逃れようとする。
しかし『夏帆』はもっと複雑なこんがらがった話になっている。
自分の人生に他人が物語を与えてくること自体が問題なのではなく、その物語が自分の中に入り込み、自分自身の現実を規定するようになってしまうことが問題なのではないか。
夏帆は冒頭から母親とは物理的に、精神的にはすでに距離を取れているように感じられる。
ただ読み進めていくうちに「母親ならこう言う」「母親ならこう考える」「母親なら私をこう見る」という想像が、夏帆の中に存在する。
夏帆にとって母親から逃げるというより、自分の中にいる「母親を想像する自分」から逃げる必要があるのだろう。
母親が読んでいる本がジェーン・オースティンの『高慢と偏見』なのも印象的で
「独身の青年で莫大な財産があるといえば、これはもうぜひとも妻が必要だというのが、おしなべて世間の認める真実である。」
という有名な冒頭。
「世間の認める真実」と言っているけれど、客観的な真実ではない。
そして『高慢と偏見』の母親・ベネット夫人は、その「世間の真実」をものすごく忠実に生きている。
彼女は娘を苦しめようとしているわけではない。むしろ彼女自身は、娘たちのためを思っている。ベネット夫人自身もまた、社会から与えられた物語の中で生きている。そして、その物語を娘たちに渡している。
そう考えると、母親が子どもに何かを押しつけるということは、単純な「親から子への支配」ではない。
親自身もまた、誰かから与えられた物語を生きていて、その物語を次の世代へ手渡している。
村上春樹は人間が他者に物語を与え、その物語によって他者の人生を規定してしまうことへの関心があるように思える。
だから『夏帆』で問われているのは、
「親から逃げられるか」だけではなく、「自分の中に入り込んだ他者の物語から逃げられるのか」なのではないか。
しかしどこまでいっても物語から逃げる、というのはできない。
大事なのは物語の取捨選択なのかな。