
中村
@boldmove33
2026年8月15日
読み終わった
テクスト分析は、対象となるテクストの分解と統合の反復と、非自明性に到達しようとする解釈によってテクストの理解を更新することを目的としている。解釈の「正しさ」を追究することは「不可能かつ無意味である」と筆者はいう。分析による価値産出における論理の飛躍は分析者が引き受けるべきリスクであるという。社会科学の場合、とりわけ実証主義では、この「ジャンプ」には慎重にならねばならない一方で、解釈主義の場合、本書で提案されているテクスト分析の技術がたいへん有用であると思われた。
>自分が気づくことは、他人も気づくはずだ。これがテクスト分析において求められる態度である。その態度はとりもなおさず、知的謙虚さにほかならない――いまあなたは、人文学というコミュニケーションの領域に足を踏み入れつつある。(p. 19)
>人文学では、「AがBを知る」という行為(A knows B)において、知られる対象である目的語Bのみならず、それを知る主語たるAこそが問題になる。だから人文学を学ぶとは、Bをたくさん知ってゆくだけの営みでなく、その知を知る人間Aについて知るということ、その知を人間が知るというA knows Bそれじたいの意味について知ってゆく営みである。それはまさしく前章でみた、知るということで世界に関与するわれわれの知の問題について考えることにほかならない。(pp. 150–151)
>人文学の価値を問われたとき、現在の日本の人文系の大学教員の多くは、みずからが所属するディシプリンの価値しか説明できなくなっている――いや、ディシプリン意識があるならまだマシなほうで、だいたいは、みずからがコミットする特定の対象に、「豊かさ」や「悦び」がある、などといった弁明しかできない体たらくだ。そんな説明で、いったい誰が納得するだろう——という初歩的な自問すらできないという事実が、事態の深刻さを物語っている。(pp. 153–154)
>テクスト分析は人文学における学術的な価値生産の根幹をなす。独自性という価値に到達するにあたって必要なもの——それは知的謙虚さである——そう本書の冒頭で書いた。知的謙虚さとは、自分に見えないものがあるという認識である。テクスト分析による価値生産の技術を習得すること、それはまさしく、この知的態度を身につけること、独自の産出にはこの知的態度が不可欠なのだと知ることにほかならない。(p. 157)