高橋
@takaryo
2026年8月15日
奔馬
三島由紀夫
読み終わった
神風連 勲
男と女
清顕と勲
純粋とその不可能さ
美しさと、濁り
不可能さについて
ロマンチックにもはやなり得ない、擬似神風連でしかありえないということ、今の僕から見れば、すべてが厨二病でセカイ系のイタいコスプレ、そこにもはや切なさも感じられない、情熱が、純粋が為しえないことになんの喪失もなく、心は粟立たず、時折、いや頁を繰っているあいだ絶えず、自分の後ろから聞こえてくる冷笑の波音、寄せては返しながら、、、
本多の手紙での諭しにもっとも正しさを感じ、その上で、そこからの逸脱を同時に熱望しても、いない、!!! い、な、い、!!
恋のような忠、というのが真に理解できてないんだろう、想像で、それこそ擬似的に、追体験するのは容易い、でも肉の重みがない、縋れるほどの信仰に開かれた身体じゃない、僕の身体は!!
若さを失っている、失ってしまった(まだ24なのに!!!)僕からの、嫉妬でしかないんだろう、完璧じゃない、無理なくせに、という考えすぎることの行き着く先、そんな高尚でなく、ただ生きてきてしまえたことからのだな、まだ若さへ憧れのかっこ付けた若さ演技へと駆動されるほどの憧憬はあるみたいだね、笑える、笑えない、笑いたい?
女として生きている、女の生き方を内面化しているはずなのに、より男であろうとよじ登る、山頂の白雪は、まだ見えているんだ、その白さを知っている、白さに焦がれることを、そして同時に下らないとも思ってる、しかし、ただ登れる人間への侮蔑は嫉妬だよ、俺の方が、本当は!!、よく登れるってね
高橋
@takaryo
あと、めちゃめちゃエンタメ、春の雪からずっとそうだけど、テンポというか、リズムというか、グルーヴがある、抜けた文と刺すような描写のコントラスト、誘導されてる、特に書き出しの退屈な文体(本多の生活)から、勲を見たときの描写の急にスイッチ入る感じね、キタキタキタキタ!!って感じ
あと三人称の、この語り手の思考が時折出てきて、お前誰だよって言うね、三島だよ、って感じでもない気がする
おかしいよね、その後で、もち
ろんそんなことまで勲は考えていたわけではなかったみたいな書くの、誰の思考なんだよ!おもろいな!もう!!
高橋
@takaryo
全然春の雪の方が圧倒的に好きなんだけれども、違いは何かと考えると、恋愛におけるロマンティックは成就についての感覚がめっちゃ直観的にわかる、つまり接吻とセックスなど、の張り詰めた恍惚の感じ
でも思想と行動についてのロマンティシズムは、不可能の彼岸にある成就の形が朧気で、あまりわからなかったし、恋と並列に語られてることの違和感はそこにあったけど、その領野においては、白刃の腹に触れたときの冷たさ。それなんだと思う、その感覚、そこでもって、太陽と繋がる感覚、その形が挫折された上でも、再演として、つまり一人でも成立しうるから、不可能さが足りないし、事実、濁った、二番煎じの、純粋ではない惨めな形での、やけくその闇雲の蔵原刺殺、濁った形での、から自刃、は可能だった、その腹を切り裂く感覚につまり他者はいらないから、不可能じゃないしロマンチックじゃないんだなという感じ
それで太陽と繋がるのはロマンチックなんだけど、閉じ籠もったロマンチックというか、いやロマンティシズムは閉じ籠もっているんだけどそもそも構造的にも、不可能とか偶然とかが排除されてるから熱くならない、ならなかった
勲が求めたのはその刃物の冷たさの感触と、その先に見える太陽だけだった、だから、刺しに行った、純粋さとかそんな観念的なものは後回しにされて、まずその感覚を、感覚だけをなぜか与えられ、熱望したのだと思う、その感覚はめっちゃわかるけど、やっぱり、、と思うけど、いや意外と、というかそもそも感覚でしか生きられないし、選べないのかも知れない、どの感覚に決定的に支配されているか、どの感覚を心の奥底で熱望しているのか、その火が冷たくても赤くても青くても、そうやって生きているだけなのかもしれない
自分は、一つには失敗する自分であることを求めており、それをだから避けようともする、避けようとする生活の安定こそ再演しようとしている「情熱」の廉価版なのかもしれない
高橋
@takaryo
暁の寺を読んでいる、めっちゃいい、こういうものが好きなんだと思う
奔馬がエンタメに感じたのは、「行動」しているからなんだと思う
行動こそ、エンタメの推進力、美に耽り留まっているのはエンタメ的でないんだね、はい、耽美耽美、最高最高!