高橋
@takaryo
- 2026年1月23日
こちらあみ子 (ちくま文庫)今村夏子読み終わったくやしいな、あみ子を「がんばって」好きになろうとしている自分がいる ピンとこなかったよ、あまり、こなかったんだよ 自分はあみ子ではない。でも、あみ子のような人を知っている。教室に、同じ教室にいたんだよ。こわかったよ、なんで考えないの?って思ってたよ、子供の遠慮の無さが一番こわかったんだよ、子供ながらに、だから年上の兄ちゃんたちと一緒にいるのが好きだった、会話を聞くだけでよかった、大人たちの居酒屋での話を盗み聞きするような、 うらやましい、なんて言ってやらない。本当にはそう思ってないはずだから。僕は、あみ子にドキドキさせられて、いずれ通学路で会っても話もしなくなって、大人になって、あみ子がいたことも忘れて、でも、たまに、この本を、読み返したいな、なんでだろう 何を書くかより何を書かないかなんて、ピンと来たことがなかったけど、なるほど、ぎゃふん - 2026年1月20日
黒い雨井伏鱒二読み終わった地名、固有名の異常な多さ=あくまでも生活者からの目線 声と戦争 逃げ惑う人々 大量死と大量生をつなぐ被爆者による鯉の養生 おそらく一度だけ、そして最後の最後に目にする清らかさ たったこれだけでこんなにも生きたいと思う その反転が希望へと間歇泉 白い虹が七彩になるアイロニーとしての、しかしそれしかない祈り - 2026年1月15日
平和と愚かさ東浩紀読み終わった抽象的な議論に頭を引き摺られていると時折、そして唐突に、平和への祈りのような言葉があらわれる。胸を衝かれる。 考えることで逆に無防備なった考えない領域が、敏感に、その祈りに触れる。その体験は痙攣に似ている。 文体が内容となり、それらが螺旋状に上昇し、最後には、何かのヒントのようなものが、目の前に転がっている気になった シーシュポスの神話の不条理な人間との対比で、平和なことは、同時に愚かでもありうるということとの緊張関係にどれほど自覚的であるべきなのか、考えたい、なぜなら、暇だから - 2025年12月30日
いま批評は存在できるのか三宅香帆,大澤聡,東浩紀,松田樹,森脇透青,植田将暉読み終わった三宅香帆の批評の開き方が不十分だという批判が森脇松田に共通していた。固有名を示し、歩けるようにするところまで開いてないと、その先を辿っていきづらいというのが、例の、読者を舐めてる発言へと繋がったのかしらん、三宅はYouTubeやデビュー作でそもそも語っておるが、やはり本の中で示されるべきなのか? 森脇氏は、一方で、批評活動の全体で示すものと述べてもいる 本を読もう!というのが結論として書かれても興醒め感はあり、とんでもなくおもろいものに出会って打ちのめされれば勝手に自分から読むようになると思うから、森脇氏の感じに近い。本を読もう!はパフォーマティブに示されるよね、というのが森脇の感じだけど、奇しくも三宅、松田両氏は一見新旧の対立軸として仕立てられてるものの、コンスタティブな示し方を志向しているように見える点で一致しているのでは 最近、三宅香帆のエビデンスに関する論争などがあり、森脇氏の件でのキャンセルがあり、東が三宅を批評家と認めていなそうな雰囲気が出たり、このイベントから一年、今改めて読み違和感が繋がったりもした うんぬん、このイベントに連なる若手批評家MEETS東浩紀などを入り口に、今年一気に批評に興味が湧き読み始めた。イベントは消えてしまったので、縁もありこの本を手にし、年末も年末に読み終えることとなった。ありがとうゲンロン
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