食いしん坊ちぇりぃ "〈私〉を取り戻す哲学" 2026年8月16日

〈私〉を取り戻す哲学
夏休み終了とともに読み終わった。なんで夏休みに読む本としてこれを選んじゃったのかというと、ここ最近、家族/職場/友人の意向や期待に沿うように振る舞いがちな自分自身に疲れてしまっていたからだ。私はどうしたいんだっけ、もっと利己的になりたいけどそれってどうやるんだっけというのを、新しい視点から考えたくてタイトルの前段に惹かれて手に取った。 その答えを得られたかというと少し違った。哲学の本だったからね。 ちゃんと!タイトルを!最後まで!読んで!1週間前の私!!! でもまぁ面白かったかな。抽象的な思考実験的なものが書かれていて、大学の教養課程の授業を受けてるみたいだった。 この本によると〈私〉を取り戻すためには ⚫︎色んなことを鵜呑みにせずにホントかよー的な姿勢でもって自分の頭で物事を考えて ⚫︎誰かがパッケージ化してくれたわかりやすく良さそうにみえるものに軽々に飛び付かず ⚫︎すぐには結論が出ない場合は判断を保留して(=エポケー) ⚫︎自分の意識体験に照らし合わせて考えて、でもそれには限界もあるから他の視点からも想像して考えたりして本質を見つけようとしつつも、違うこと言う人もいるから尊重しあおーね ⚫︎とにかく〈私〉の内側に目を向けて〈私〉を取り戻していこ!これが新デカルト主義の提案だよーん という風に私は理解しました。 これは哲学的には何か独特な提案なのかな…?この考えに至る道筋を哲学的に示すことに価値があるのかな…。情報過多な世の中で冷静にものを見る上では、当たり前田のクラッカー過ぎる姿勢なのではとか思っちゃったよ。あとエポケーだけど、元来日本人はエポケーの実践、得意なんじゃなかろうか。 私が元々考えたいなと思っていたことと、少し掠ってる気がしたのはココかな: 「他者との時間は不自由を伴う。他者が目の前に存在しているだけで、それを黙殺するのは難しいし、そこに何らかのコミュニケーションが発生するからだ。誰かと一緒にいるだけで、〈私〉の自由は制限される。しかし、自由と責任を一人で背負い込もうとするとき、それが生きていく上での重荷になることもある。つまり、自由であるがゆえの憂鬱がある、ということだ。(中略)誰かと一緒にいる、ということは、互いの自由を、いい塩梅に、減じあう作業でもある」(p233) →確かに、人との関わり度合いを減らして自分の自由度を増やせたとしても、ひとりじゃつまんないな、じゃあ多少不自由だったり削られたりしても一緒の方が良いかな、そこで良い塩梅を探るしかないんだよな、と思った。良い塩梅とは。そこが難しいのだけど。 ちょっと慣れないタイプの本で頭が疲れたので、次はしょーもないくだらない本を読みたい。
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