
ジクロロ
@jirowcrew
2026年8月17日
引き裂かれた自己
R.D.レイン,
天野衛
読んでる
肉化されざる自己
これは自分の自己を、多かれ少なかれ自分の肉体から分離し切り離されたものとして経験する場合である。肉体は、その人自身の存在の核としてよりも、世界における他の物体のうちのひとつといて感じられる。肉体は、真の自己の核ではなく、偽りの自己(falseself)の核として感じられる。そして肉体から分離した「内部」の「真の」自己が、あるいは優しくあるいは面白がって、ときには憎悪しながらそれを見つめているのである。
(第4章 肉化された自己と肉化されざる自己)
「肉化されざる自己」の肉化、これをドゥルーズ+ガタリは「生成」として、『差異と反復』あたりから表現し始めていたのではないかとふと思う。
肉化された自己が「である」ならば、肉化されざる自己は「なる」であり、それの表出を「肉化」と呼ぶならば。
現代における「である」の限界、というか生きづらさ。だからこそ「である」の強度と純度に猛烈に憧れつつ、「なる」で複雑で多様な場面を生き抜いていく。そこには「憎悪」も「罪悪感」も克服されている。そして「真の自己」なんていう記号的な高尚さは否定する。
「である」はシンプルな法則性を持つ、ゆえに記号として利用される。アルゴリズムは容易に解き明かされてしまう時代の、誰にでもアクセス可能な知性、その負の一面。
肉化された自己は善、肉化されざる自己は悪(分裂症の兆候)。
レインの二元論の克服、というよりも先の時代を見越し、両者を肯定的に、流動的に捉えられるように溶解した肉、再構築の結果が「なる」。冷静に考えると、この時代の、価値の移り変わり具合が凄い。
(「揺るぎない自己」とは現代においては下手をすれば否定的に捉えられる)
「虚傷を装った真理と真理を装した虚偽が同じ笑顔を浮かべ、素早く入れ替わりながら、こちらを見つめているのかもしれないぞ。ジョルジュ・デュメジルもまた、友人であるミシエル・フーコーについて語っていたではないか。「フーコーが仮面をつける、あるいは仮面を変えるのにいかに芸術的な才能があったかは、あなたもご存じのはずです。公共の場での発言で、彼はある事柄に重要性を付与しているように思わせ、裏では皮肉を込めて、突き放してそれを語ることがありました」」
『ドゥルーズを「活用」する!』第八章仮面、地図、生成)
それでも、だからこそ、『イリアス』に出てくる登場人物たちの姿がより輝いて見える。古典の強度、何度でも、時代を跨いだ「差異と反復」。



