
salguna.
@3ell0fl0
2026年8月18日
「夫婦」不在社会
三宅香帆
買った
読み終わった
特に印象に残ったのは、男性が「生産」、つまり仕事を担い、女性が「生活」、つまり家事や子育てを担うという分業が、単に役割を分けただけではなく、男性から「生活について考え、担う主体であること」をも奪ってきたのではないか、という点だった。
男性は仕事をして家族を養うことを期待される一方で、子どもをどう育てるのか、家庭をどう営むのか、日々の生活をどうつくるのかという問題については、女性ほど主体的に考えることを求められてこなかった。その結果、「家庭のことは妻が考えるもの」という構造が生まれ、男性は生活にコミットする責任からある意味で免責されてきたのではないかと思う。
私はこのことに、かなり強い気持ち悪さを覚えた。
とりわけ、男性が子どもを持つことについて自分自身の問題として考えず、黙ってしまうことと、それを許してきた社会構造について考えさせられた。女性には「母親なのだから子どものことを一番に考えるべきだ」という母性的な役割が与えられてきたのに対して、男性には「父親なのだから子どもの生活について考え、責任を負うべきだ」という要求が同じ強さでは課されてこなかったのではないか。
それは、単に男性が家事をしなかったという話ではない。人間の生活を成立させる責任が、性別によって偏って配分されていたということだと思う。
そして現代では、社会が労働力を必要とするため、女性も「生産」の領域へ進出することを求められるようになった。女性は仕事をしながら、家事や子育ても担うことを期待される。しかし、その一方で、男性が同じように「生産+生活」の両方を担う存在へと変化したのかと考えると、私は疑問を持つ。
もちろん、家事や育児を担う男性は増えている。しかし、女性の社会進出と同じほど、男性の生活領域への進出が社会構造として促進されてきたのかというと、そうではないように思う。女性だけが「仕事も家庭も」という二重の責任を引き受けることになれば、旧来の性別役割分担が形を変えて残ってしまう。
この問題を考えるうえで、『ドライブ・マイ・カー』についての考察も印象に残った。そこでは、妻が自分とは異なる「他者」であることを受け入れられない夫の姿が描かれている。
私はここにも強い違和感を覚えた。妻は夫の所有物ではない。それなのに、親密な関係になった相手について「自分なら相手のことをわかっているはずだ」「自分が知っている妻が、本当の妻なのだ」と考えてしまう。そこには、親密さと所有を混同してしまう危うさがあるように思う。
しかし、妻は夫とは別の人間であり、自分には完全には理解できない欲望や感情を持った他者である。それは妻だけではなく、恋人や親友についても同じだろう。親密になるということは、相手が自分と同じになることではなく、むしろ「自分とは異なる他者である」ことを受け入れたうえで関係をつくることなのではないかと思った。
ここまで考えると、私は自分自身の恋愛や結婚に対する欲望についても考えざるを得なかった。
家父長制が恋愛や結婚という制度にも影響を与えていることに気づいたのに、なぜ私はそれでも恋愛や結婚を求めるのだろう。
私は、恋愛や結婚という制度そのものを求めているのではないのかもしれない。私が欲しいのは、誰かに所有されることでも、誰かを所有することでもなく、自分とは異なる一人の人間と深い親密性を築き、生活をともにつくっていくことなのだと思う。
だから私は、「夫婦」という言葉をそのまま否定したいわけではない。むしろ、夫婦という関係を一度解体して考え直したうえで、それでもなお二人でいることを選びたい。
私が夢見たいのは、夫と妻がそれぞれ独立した主体であることを認めたうえで成立する、水平的なパートナーシップだ。
そこでは、「男性だから仕事、女性だから家庭」という役割分担ではなく、仕事も生活も、それぞれが自分自身の責任として引き受ける。そのうえで、二人が共有する生活については二人で責任を持つ。相手の人生を自分のものにするのではなく、別々の人間として生きながら、一緒に生きることを選択する。
そのためには、公と私を性別によって分担するのではなく、一人ひとりが仕事と生活の両方に対して主体性を持つことが必要なのだと思う。
そして私は、「傷つけない関係」よりも、「傷つくことがあっても関係を深めていける関係」をつくりたい。
相手は自分とは異なる他者なのだから、完全に理解することも、決して傷つけ合わないこともできない。それでも、相手を自分の所有物にせず、相手の異質さから逃げず、傷ついたときには話し合い、もう一度関係をつくり直していく。
そういう意味での「親密性」を、私は誰かと築いてみたい。
『「夫婦」不在社会』を読んで、私は「夫婦」という制度について考えただけではなく、自分がどのような二者関係を望んでいるのかを考えることになった。
家父長制的な夫婦像をそのまま受け入れることはできない。それでも私は、誰かと深く関わり、生活をともにし、互いに異なる人間であり続けながら一緒に生きることを諦めたくない。
むしろ、古い「夫婦」の形を疑うからこそ、私は新しい「二人でいること」の形を考えてみたいと思った。