ジクロロ "私たちはどう学んでいるのか" 2026年8月20日

ジクロロ
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@jirowcrew
2026年8月20日
私たちはどう学んでいるのか
鍵となるのは冗長性と揺らぎなのだ。つまりある一つの行為を行う際に、その実行方法が複数あり、それらが場面場面で異なる仕方で現れるのである。その結果、実行に要する時間に変動が生じているのだ。プラトー期では、それまでにある部分の組み立てでもっぱら使われていた接続方法Xとは別のものYが現れてくる。つまり複数の操作方法が拮抗、多様なリソースが存在する冗長な状態なのである。 (p.101) ここで言われるXとYとは、自己のうちに内在するリソースを指す。この話はある技能のパフォーマンスに関する練習回数と上達に対する説明としての「プラトー」(停滞)期を指す。プラトー期を経て、さらなる上達へと至る。 「近代に至る文明の成果の高みを保持したままで、高度に産業化された諸社会は、これ以上の物質的な「成長」を不要なものとして完了し、永続する幸福な安定平衡の高原(プラトー)として、近代の後の見晴らしを切り開くこと。」 (『現代社会はどこに向かうか』見田宗介p.17) 「高み」としてのプラトー、「脱成長」とは、成長以外の要素に豊かさを見出すこと。高みからの見晴らしーーその地点から上に行けないことや堕ちることに不安を覚えることなく、水平方向に、踊るように、それぞれの高み、その強度と交歓すること。そのとき、XとYとは、同じ高原(高みの地平)に存在する。 「仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと具えているとするなら、それを抑え込む学習がここでなされていくわけである。バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態(プラトー)ーー強度の一定した持続ーーが現れていくとの考えは有望である。」 (『精神の生態学へ 上』 「バリ――定常型社会の価値体系」 ベイトソン) XとYが垂直方向に並べられるとき、プラトーは揺らぐ。Xは、彼が立っている地点がすでに「高み」であることを忘れ、Yという累積的相互作用に伴う「高み」を目指してしまう。 「クライマックス」という弛緩を目的とした緊張とその連続、これを悪循環とベイトソンは言う。 ベイトソンの論述をヒントに「千」にまで膨らまして新たな「面」を生み出そうとしたのが、ドゥルーズとガタリであった、というこの流れを、この本にたまたま書いてあった「プラトー」(停滞)から知ることになる。 見田さんもまた、その著書には明言されていないがおそらくベイトソンからヒントを得ている。 「持続可能性」を突き詰めたとき、ベイトソンがヒントにしたのが生態学であったということ。 「一のプラトー」が三になり、やがては千という銀河になる。プラトーとはモナドとも細胞の集合体とも言える気がする。 プラトーとは、その一つ一つは停滞しているように見えて、実は振動し、交信し合っている。 「累積的相互作用」を伴わない「高み」とは、 「モナドには窓がない」と言い切ったときの、ライプニッツのまなざし(見晴らし)であると言えそうだ。
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