
euy
@euy
2026年8月22日
辺境・近境
村上春樹
ちょっと開いた
「ノモンハンの鉄の墓場」を再読。
いろいろなエピソードやら思わせぶりな出来事やらを羅列した旅行記かと思いきや、改めて読み直すと、何となくこの旅行記を通じて貫かれている一本の筋があるようにも見えなくもない。
冒頭、今の戦後日本は、平和で繁栄して効率的な民主国家になったようにみえて、僕たちは「人間としての基本的な権利を保証されて生きているのだと信じている」(←「保障」では?どうでもいいけど。どうでもよくてすみません。)けど、「表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。」という問題提起がされる。
そして終盤、ノモンハンで、55年前の戦場の砲弾の破片や銃弾とかかそのまま現在も生々しく放置されている、タイトルに付されているとおり「鉄の墓場」とでもいえる光景を見て、村上は衝撃を受ける。「ただ、忘れないということが、おそらくは僕にできる唯一の行為であるように思えた」と記している。
その晩、村上は寝付けず、「それは道路の真ん中にぽっかりと空いた穴から、はるか世界の深淵を覗き見るのと同じくらい怖いことだったのだ」と語る。
そしてこの旅行記の最後は、再び、忘れないことが自分にできる唯一のことだと記して締め括られる。
私たちが住む日本は、一皮むけば、戦前の密閉された息の詰まるような残酷な社会が残っていて、それを忘れないようにすることが大事だ、ということなのだろうか。
ねじまき鳥クロニクルにもそのような意図が込められているのだろうか。
この旅行記の冒頭では、こうした閉鎖性を村上は「アジア性」と表現していたが(梶谷懐先生がブログで引用されていたように)、日本固有のことを描いてるのか、中国やモンゴルも含めたアジア全体のことを描いてるのかは、自分にはよく読み取れなかった。
旅行記の中では、わりと中国やモンゴルは全然違う異文化のように描かれてたけど。
でも戦場からの帰り道でモンゴル人が狼を否応なく機械的に宿命的に射殺するところを描いてた象徴的なシーンは、これも何か「アジア性」の表現の一つだったんだろうか。
とかいろいろ考えさせられた。まあ村上春樹はむずいよな。読む人によっていろんな読み方ができる。






