
Aquaporin
@aquaporinase
2026年8月22日
国宝 下 花道篇
吉田修一
読み終わった
昨日小説の方を今日は映画の方の国宝を読んで見た。半年前に学生時代の先生と飲んでいる時におすすめしていただき気になっていた。この人がおすすめするなら読むかと思う人が国宝の映画を食わず嫌いしていたこともあり、さらにはこの人がおすすめするなら私にとってはおすすめではないことが多いような人たちがおすすめしていたからもあって、敬遠していたが、相性が悪くてもそれでも面白いものだろうと思って気になっていたこともまた事実で、お盆に祖母が自宅に読み終わっておいてあったものをみつけ、またアマプラでも見れるようになったため、今週は国宝の週になった。予感自体は正しかったけれどそれでも読んで見てよかったとも素朴に思っている。
少し前にプロジェクトヘイルメアリーの小説も読んだからだと思うけれど、バディものがここ数年すごい人気に思えて、それはどうしてなのか考えてみるけれど、バディはなんか推せるみたいなこと以外にあまり浮かばない。二人でいることのあまり考えたことがないような形はなんだろうと思う。国宝の中の描写それ自体に新しさはなく、それ自体が国宝のようなものなので、時期をずらして読んだり見れてよかったと思ったし、より時間が経つと古典としての良さを持つようになるのだろうと思った。
同じ作品の小説を読んですぐに映画を見る体験は今回初めてのことで、私自身が相当に読み飛ばすような読み方をするようにここ数年でなっていることに気づいたり、文字を読むときには映像を全く想像せず、想像するとしても相当に近視的というか断片的なものとしてのことばかりなことに気づいた。だから、映画の中の引きの映像としてのTHE歌舞伎というべきビジュアルを全く想像できていなくて、だからこそ映像として見れて良かったとも、映像としてみる前に読めて良かったと思った。小説を読んでいたときに想像していたのは全く歌舞伎でもなければさらには時間芸術ですらなかったのかもしれない。舞台での俊介と喜久雄への寄りの映像の時のものは読んでいる時に私が想像していたものと近かった。局所に焦点の当たった静止画的なものはドストエフスキーから断片的に思い出す重たいシーンのイメージとも近くて、歌舞伎は動いていても滑らかさが日常の動きと異なり緩急が大きく、さらには止まる位置も一般的なものと異なっていることで止まるような瞬間の印象を強くもたせる表現なのかもしれない。寄りになるとシワが目立ち、引きになるとシワが目立たないことがおそらく演出によって強調されていて、売れるってそうだよなと思う気持ちと、売れるとは無関係にこれは結局なんなのだろうという考えてみたくなるところがある。最後の方の参考作品のリストを読んで、なんとなく演出や描写など関係なく歌舞伎の体験を何かどこかにかえしたくて作者はこの作品をここまで長く書いたのかと思った。
https://note.com/tawamureru/n/nf80cfeb45e92