じょるじゅ。 "アンチ・スポーツの哲学" 2026年8月26日

アンチ・スポーツの哲学
難波先生の新刊ということで拝読させていただきました。 私自身、スポーツはあまり好きではない(身体を動かすのもそんなに好きではないし、球技がまるでできなかった)のですが、本書を読んだことで、自分は<スポーツ>するのが嫌なのではなく、スポーツに関する雰囲気や文化、イメージが好きではなかったのだと気づきました。 難波先生がご指摘する通り、スポーツとは何かを考えるとき、私たちはスポーツそのものよりも、その周辺にある物語や道徳性を含めて「スポーツ」をイメージしているな、と思いました。 ただ、スポーツ自体は“究極にフェアな競い合い“であるはずで、「道徳心が育つ」とか「挫折が今後の人生の糧になる」というのは本当なのか?と、文化部オンリーだった私も側から見ていて疑問でした。 もしかしたら、ルールに則った上で相手を潰すことが公に許されている…というか、それが目的だからこそ、そういった競争心や暴力性を正当化するためにそういった考えが生まれていったのかなぁとも考えました。 また、難波先生はスポーツはゲーム的とおっしゃられていましたが、個人的にはギャンブル的な側面も強いのではないか、と感じました。というのも、母が熱狂的な燕党(私も燕党ですが、母ほどではない)なのですが、負けると翌日までギャーギャー嘆いて「もう野球は見ない!」と何度も言うくせに、夕方になると先発は誰だ、スタメンが発表されたとソワソワ。そして試合が始まれば、コソコソとスマホを見て一喜一憂。 あまり感情の波を起こしたくない私は、「それなら見なきゃいいのに」と思うのですが、その一喜一憂自体にある種の中毒性があるようなのです。だからこそ、最近は観客やSNS上での行き過ぎた非難や暴言が加速しているように感じます。 スポーツ選手のペルソナを勝手に理想化し、ちょっと何かあればすぐにこき下ろしてしまう…身近な人であれば表立ってできないであろうことを、スポーツ選手などの有名人であればOKというのは恐ろしい心理ですよね。 またも脱線になって恐縮ですが、私が誰かを熱烈に応援するのが苦手な理由もわかった気がしました。その人のことをよく知らない(こっちが一方的に知っているだけな)のに、「好きー!」と騒いで、もしもその人が法に触れるようなことや不祥事を起こしたときに、自分はどう振る舞えるのか…相手の更生を信じて支えられるか、というところまで考えてしまうせいかもしれません。 「ひどい、裏切られた!」と見限るのは簡単なのですが、それこそその人のペルソナを勝手に消費して、使い捨てるような気がして、どうも居心地が悪くなるのです。 難波先生のご著書は、自分の経験と照らし合わせて色々と思い巡らせることができるので、とても有難いです。 そして本書を読んでいる間に、難波先生の最新刊が発売されたようなので、そちらも読ませていただきたいと思います!
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