Haruhito "星野源論" 2026年8月19日

星野源論
星野源論
つやちゃん,
小田部仁,
戸部田誠(てれびのスキマ),
【編者】小田部仁
とくに第二部、つやちゃん氏の星野源論が良かった。 星野源のディスコグラフィを軸に表現やメッセージ性の変化を追いながら、とらえどころのない星野源像を解き明かしていく内容である。音楽や映画が好きな自分は、3rdAlbum『Stranger』や映画『箱入り息子の恋』『地獄でなぜ悪い』あたりで星野源を認知したのだが、映画での「無害そうに見えて毒を持っている」みたいな役どころに苦手意識を持っていた。星野源のことを「没個性的」な役者とみていて、「没個性的」だからこそ染めやすくて使い勝手が良く、当時よく言われた「草食系男子」っぽさにも同性として魅力を感じなかったのである。彼がMVなどでみせる「くだらないおもしろさ」も、「自分には合わないな」と感じていた。それ以降は、俳優業やタレント活動の方は追っていなかった。音楽の方も、アルバムが出れば聴くぐらいの温度感だった。 論考の中で、まず『彼のポップ性は、象徴の固定ではなく、それが日常に溶け込むことで機能しがちだ。つまり、ポップスターでありながらも、ひとつの記号に還元されることを拒む存在、あるいは、その記号性自体が多方向に拡がり続けるような存在なのである』と言及される。有名人などが「学生時代はいじめられていて…」とか、アイデンティティを前面に出してある層を代表したり、メッセージを体現したりすることはよくあることである。それ自体はコミュニティを勇気づけたり、社会に新たな視座を与えたりと重要である。しかし、意味が多様に、そして過剰に解釈される時代においては、『誰かの表現が、その人自身の手を離れ、人格や立場の証明として消費されていく。意図していない読みが「正解」として定着し、そこから逸脱することが許されなくなる。意味が人を助ける前に、人を縛りはじめる速度が、あまりにも速い。時には、メッセージを持たないことは不誠実だとされ、曖昧さは逃げとみなされ、気持ちよさは正しさと結び付けられてしまう』危険性もあると、つやちゃん氏は指摘する。そして、それを踏まえた上で『(星野源は)大きな声で世界を説明するのではなく、世界と同じ場に立ち続けながら、意味が固まりきる手前で音を鳴らす。結論を急がず、立場を固定せず、感情が揺れ動く時間を許す。そのために、あえて言葉を曖昧なままに保ち、気持ちよさを完結させない』繊細な態度をとっていると。 星野源の「語りにくさ」は、正確には「語りが一箇所に固定されることを、構造的に回避してきた存在」ゆえに起こるものである、という一連の見解は、私自身が漠然と感じていた、「星野源は体現しているものが抽象的」という浅い印象からくる「没個性的」という認識を根底から覆してくれた。また、『(星野源の存在は)私たちが生きている現代そのものの写し絵でもある。彼の表現は、意味を押しつけないがゆえに、受け手の側に解釈の余地を残すため、「星野源を語ることは、私たち自身を語ることでもある」になってしまう。彼は語らないのではなく、語らせすぎないとも言える』を読んで、アンディ・ウォーホルのポップ・アートにおける「あえてアウラを消失させる」アプローチにも似ていると感じた。あるいは、劇場版が大ヒットしている『ちいかわ』も「語りしろ(考察させる諸要素)があるものの、答え(作者による明確な回答)がない」という点で似ていると感じた。意味が過剰にとられる時代において、ポップあるいはポップスターに不可欠な姿勢かもしれない。 星野源と彼の表現、そして現代社会における表現を考える上で、本書は大いに助けになったし、最近は星野源なアルバムをずっと聴き返している。
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