
本の虫太郎
@book_liver
2026年8月31日
責任の生成
國分功一郎,
熊谷晋一郎
印象に残ったこと3点
・では両者を対立させることにはいかなる効果があったのか。「Iappear」と「I am shown」を区別することでもたらされる効果について、僕はこんな仮説を抱いています。この区別は、私が自分で現れているのか、それとも現れることを強制されているのか、それをハッキリさせたいのです。つまり、「お前は自分で、自分の意志で現れたのか?それとも、誰かに引っ張り出されて、現れることを誰かに強制されたのか、どっちなんだ?はっきりしろ」というわけです。
能動と受動を対立させる言語は、行為における意志を問題にするようになったのではないかと思うのです。そうすると同じ現象であっても、自分の意志で現れたのか、それとも現れることを強制されたのか、区別しなければならない。
「自分の意志でやったのか?そうではないのか?」と強く尋ねてくるこの言語を、「尋問する言語」と僕は呼んでいます。中動態が消滅した後に現れたのは、そのような言語だったのではないか。
・私たちは、生まれてから今日に至るまで、大量の予測誤差を経験しています。過去の予測誤差は、それを思い出すたびに叫び出したくなるような「痛い」記憶が多々含まれていると思います。誰でも痛いのは嫌です。しかも予測誤差の記憶は、範疇化を逃れた一回性のエピソード記憶の形式をとります。
予測可能にするためには、反復するカテゴリー(タイプ)の一例(トークン)として、その予測誤差の記憶を位置づける必要があるわけですが、一回性の記憶は私のなかでは反復していませんから、論理的に無理なことです。
おそらくそこで重要になってくるのは、類似したエピソードを経験している他者との言語(タイプ)などを通じた分かち合いだろうというのが、私の考えです。一回性の記憶は、他者を媒介に反復させることによってトラウマ記憶ではなくなるのではないか、という考えですね。そうすることで、集合的な予測のなかに自分のエピソード記憶が位置づけられたときに、それはなまなましいトラウマ記憶ではなく、通常の嫌な記憶として御しやすいものになっていくのでしょう。
・彼は人間を、人生から問いを投げかけられている存在と捉えたうえで、「私は人生にまだなにを期待できるか」ではなく、「人生は私になにを期待しているか」を考え続けること、それが責任なんだと言っているのです。人生がわたしに何を問いかけているか考えることに責任が宿ってくる。フランクルの言う責任は、必然的に自分の人生を振り返ることを要求します。