いっちー "ケアする私の「しんどい」は、..." 2026年9月2日

いっちー
いっちー
@icchii317
2026年9月2日
ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか
ケアの倫理は、「よりよい状態」をあくまでも個人の道徳的問題として論じており、ケアできる能力。個人の道徳的問題に還元している。つまり自己責任論的である。 この本は「ケアの文脈」を語る。規範(=ケアする人に何が期待されているか)や資源(=体力や時間やサービスが利用可能か)の配置を指す。 ケアの文脈と言う考え方を元にすると、うまくケアできるかどうかは、ケアする人の能力の問題ではなく、ケアする人される人のケア関係が置かれている文脈に依存する。 この本では繰り返し、「不確実なニーズの判別に複数の人が関わることで、決定に伴う責任を軽減していくべき」p230という主張がある。ケアという個人的に思えるものでも、責任を分有することや、そのための制度やサービスを整えることが必要であり、政治とも切り離せないものなのだなと思えた。 ケアの倫理が登場したときはとても画期的だったのだろう。でもその倫理でさえ、自己責任論的に読めてしまうのは新しい発見だった。ケアの文脈とはその先にあるもので、ケアの倫理の功績なくしては生まれなかったんだろうと思う。時代は良くなっている。 とはいえ実践に移すには、最低限「ケアの倫理」があるというところの知識を知っている必要があるし、例えば子どもの学校を考えるというような時でも、そこにある哲学を知ってから選ぶ、というようなことが必要なんだろうな〜と思う。「子どもの学校」というのは「寝た子なんているの?」という本での話を思い出した。
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