ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか
40件の記録
- むこうやま@65yama_kana2025年11月21日読み終わったついに読み切った!!!大拍手(著者と私に)!!!!! この数年、海外のケア理論が流行ったが、ここまで現場感覚にぴったりくる人文書はなかった。ケアを感情労働、身体労働、で片付けるまえに、「感じたり考えたりする労働」と説明し、その不確実な性質を指摘してくれたのは、「ほんとそう!!!マジで言語化してくれてありがとう!!!」としかいいようがなかった。「女性のほうがケアできるのはなぜか?」という飛びつきやすい問いからも巧みに距離をとった戦略もあっぱれであった。願わくばこのSAの概念が広く浸透し、ケアワーカーの賃金が上昇することを。



- むこうやま@65yama_kana2025年11月10日読んでるやっと第6章まできた、、、 「このように専門職としてのケアワーカーは、ケアされる当事者との相互行為だけをおこなっているわけではなく、家族と本人との関係性を観察し、理解する存在でもありうるのです」 「しかし介護保険制度で介護報酬の算定の対象になるのは、あくまで利用者本人への身体的ケアや調理といった「タスク」であり、家族や関係性を感知しそこから浮かび上がったニーズへの対応は、ケアワーカー側が「自らの負担で補っている」のです」 私が現場の人以外とケアの話をする気があまり起きないのは後者の事情があまりに伝わらないからである。身体介護以外に考えたり感じたりしている活動が「ケアラーの感性」としてだけ取り上げられ、いい人がやってる安い労働だと思われている。

はな@hana-hitsuji052025年10月12日読み終わった図書館本図書館で借りた併読しながらも借り直して何とか読み終えた! 福祉や教育に関わらずに生きることは不可能な社会の中にいるはずなのに、その根幹を無賃、無保証みたいに個人の時間と労力に委ねて透明化してるの何なんだろうな。 発達障害、重度障害、介護など。 自分だって自分が納得したり満足してケアを受けてきたことばかりじゃないのに、それを踏まえて?さらに完璧にケアすることを求められている気がする。 「無理しないで」という言葉もなんだかただの生活音に聞こえる時がある。 無理したら、自分さえ頑張れば何とかなるともう一踏ん張り耐える局面の多さ。 それを笑顔でどんどんこなせる人が感謝されスタンダードになっていくのもどうなんだろうか。美談は何の疑いもなく信じて、挫折したり道徳的に振る舞えなかった人は断罪される感じ。 無理しないで乗り越えられることって例えば何??って思う正直。 手抜きした、しくじった、放棄したとすぐ手のひら返しして非難される。 「家族であればケアラーであるはず」 「母親であればケアするものだ」 でもやり切れない時あるよ。1人や家族の中の一部の人だけで抱えられないこと、沢山ある。 システム的にも資質的にも「ケアは女性の方ができるもの」という前提を疑い、もっと深く考え直してみる。 根底を今一度考えるという試み。 この本も読んで良かった。






もくせいそう@mokuseisou_972025年10月9日読み終わった誰もケアの正解は分からないのに、主として女性がケアに取り組んでいる。そんな女性たちに押しつけられる「ケア責任」をsentient activityという概念を使って丁寧に解きほぐし考えていく。Ⅲのケア責任とジェンダーの章は、男性とケアを考える上で示唆に富むところ。
はな@hana-hitsuji052025年8月30日読んでる図書館で借りた共著で男性の書いた章もあまりに的確な考察で読みながら何度も目が大きくなってる。 「僕は男でフェミニストです」の著者のことを思い出した。 家でも仕事でも感じることだけど、名前のついた業務(家事や育児)のメインだけ齧って、すごいやってる感とか義務を果たした感出してくる人にマグマが煮えたつことがある。 お正月に親族が集まると、子どもと遊んでお年玉渡して「良いおじちゃん」と大人気だった叔父がその家族からは冷たくされていたのを思い出した。 子どもの頃は訳が分からなかったが、今なら彼はその前後に発生する準備、後始末は何もせずに叔母やその娘(息子もいたけど)がそれらをして、日常的に自分はいいとこ取りして掻っ攫っていっていたのだなとわかる。 名前のつかないものも含めて家事・育児、ケアが上手くなるということはシンプルに否応なしに経験回数や場数が多いということであって、必ず性別によって生まれた時から得意・不得意のある分野なわけではないものね。 でも自分も含めてあまりにも当たり前に社会の意識やお約束が馴染んでいて、自分がしんどいのは自分の能力のせいだと思いがちだし、そこに価値や存在意義を求めて承認されるために知らず頑張っていたなんてこともよくある。 大体の人は、好きなことでもない限り仕事なら出来ることを無給でならやりたくないのではないだろうか。 他者が代わりに行った途端賃金が発生しているのに、なぜ自分がこれを率先してやることは無給扱いになるのか。 そんなに尊い仕事ならみんなが我先にと奪い合ってやるのかといえばいつのまにかみんなその場からいなくなっていることが答えなのでは。 逃げられないのは自分だけだ。 「母親なんだから」という言葉を聞くと嫌な気持ちになる時がある。 家族との繋がりも自分の人生の一部だが別に全てじゃない。 自分の母はもう一度同じ人生をやるか尋ねられたらイエスというだろうか。 だから既に出産、子育て、介護する側のレールに乗って走り始めた人を何か自分の出来ることを増やして助けたくて働いて納税して本を読んでるところある。 あの日々の母を助けなおしたいのかもしれないけど。



















































