
プールに降る雨
@amewayamanai
2026年9月2日
読み終わった
後期フーコーの権力論と統治論に絞って書かれた入門書。
本格的な議論に入る前にプーサイドに腰かけて水をパチャパチャかけて慣らす感覚で楽しめた。
フーコーのいう権力が自分がいままでイメージしていたものとは違うものであったことは目が開かれる思いだったし、新自由主義では個人は企業としてあつかわれるという話もおもしろかった。
著者の希望が書かれている最後の章はちょっとぼんやりとしていて具体的にどうすればいいのかわからなかった。
以下、まとめ。
第一章。フーコーが描く権力とは上から下への抑圧や禁止ではない。権力とは個々の関係であり、それ自体は良くも悪くもない。主体みずからが従属し規律的にふるまうように促す力のことである。その規律と、生老病死を管理することで「健全な」集団をつくる「生政治」による統治を実現するのがフーコーが呼ぶところの「生権力」である。
第二章。フーコーは規律権力の源流を中世キリスト教修道会の「司牧権力」に求める。他者を導く技術が世俗化し、やがて西洋近代社会の統治の基礎をきずいた。と、ここで、羊を導く牧者としての修道士は自己をも統治する必要があったという話から時代を飛び、ソクラテス・プラトンの「自己への配慮によって真理に到達する生き方」が論じられ、両者が対比される。
第三章。近代国家における君主から臣民までの個人はそれぞれの範囲において自己と他者を統治し、国家の安全を図る。それは司牧権力から遡り論じられた、ポリスにおける統治技術でもあった。フーコーによれば、主体としての国家にとっての真理とは市場であり、特に大戦期以降の新自由主義に着目する。適正な価格(真理)を実現するため、市場における自由な競争を確保するには経済以外の、すなわち社会に対する国家による積極的な介入が求められる。また、新自由主義は、経済人をひとつの企業体としてとらえる。
“二一世紀初頭の日本から見れば、こうした経済人の考え方はなじみ深いかもしれない。 自己責任原則がこれほど浸透した社会では、情報や資源の不平等が意図的に放置されたまま、それぞれひとつの企業体である個人や家庭に「選択」とその結果だけが丸投げされ る。私たちはすべての苦悩の個人的な所有者として、その解決を迫られ、ひとり企業家としてあらゆる能力を高めて生きるよう強いられている。老若男女は「時代の要請」、規制の変更や介入を通じて操作された「環境」のあり方に応じて、みずからの人的資本を高度化することに追われるのである。個人や家庭の「企業」活動には終わりがない。経済人という考え方そのものは古典派経済学から存在するとはいっても、その中身はまったく別物になっているのである。” p.74
第四章。為政者によって導かれる者がみずから生み出すべつの導き、すなわち「対抗導き」とカントの啓蒙概念との組み合わせによって、いまある導きを拒絶し、容易に統治されないオルタナティブな主体の出現を展望して締めくくられる。

