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プールに降る雨
プールに降る雨
プールに降る雨
@amewayamanai
  • 2026年5月27日
    演出をさがして 映画の勉強会
    演出をさがして 映画の勉強会
    友人とBunkamuraル・シネマの濱口竜介特集上映を観に行くことになり、その予習というわけでもないが読み始めたのだった。 いやおもしろかった。濱口、三宅両氏がどのような点に注目しながら映画を観ているのか、作り手側の視点が学べたことによって鑑賞の幅が広がった。視線のイマジナリーラインとか映画とはいかに嘘をつくかとかの話が『親密さ』を観る補助線になって読んでおいてよかった。
  • 2026年5月21日
    伝奇集
    伝奇集
    ビクトル・エリセの『瞳をとじて』のなかに出てくる“トリスト・ル・ロワ(悲しみの王)”という名の屋敷。そこの主人はある短編からその名を取ったという。 その短編が、この『伝奇集』内の「工匠集」の一編として収められている「死とコンパス」。ということで、映画の理解の助けになればと再読。 「死とコンパス」は探偵小説で、真相を突き止めた探偵は作品中最後の舞台となる“トリスト=ル=ロワの別荘”におもむくことになる。 別荘はシンメトリカルで迷宮的な構造をなしており、『瞳をとじて』においても、さも意味ありげに映される二面の神ヤーヌスの像も登場する。 ところが小説内では、“トリスト=ル=ロワの別荘”と書かれるだけで、“トリスト=ル=ロワ”がいったい何なのかは説明されない。 「工匠集」のプロローグには、“トリスト=ル=ロワは、ハーバード・アッシュが幻の百科事典の第十一巻を受け取り、たぶん読まなかったホテルの名前である。”と書かれている。 ハーバード・アッシュとは、本書「八岐の園」の一作品め「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の登場人物。 また、「死とコンパス」には、“マンディエ・モリーナ=ペディアに”との献辞があり、訳注では、“トリスト=ル=ロワという名を思いついたボルヘスの友人で、彼女のベッドルームの壁には、この別荘を描いた地図が貼られていたという。”と説明されている。どっちなんだ。 本書全体がこのように虚構と現実の区別が錯綜し、いまはどの階層で語られているのかと混乱させられる。 しかしむかし読んだときの印象と同じく死ぬほど読みにくい。小説というよりアイデアの簡潔な説明だなと思っていたら、「八岐の園」のプロローグに、“長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて,要約や注釈を差しだすことだ。”とちゃんと書かれていた。(“〇〇は、〇〇は、〇〇である”という変な文章だけど引き写し間違いではない) 個人的に小説に求めているものは、要約から切り捨てられた行間にあるはずの、生き生きとした人物描写やその関係性の変化、機微といった、ながながと展開される“狂気の沙汰”だからなあ。 けっきょく『瞳をとじて』の理解の助けには特にならなかった。
  • 2026年5月21日
    斜め論
    斜め論
    現在の自分の興味関心の方向性や知識の習熟度からいうとあまりはまらなかった感はある。 が、今後、日常で何か不都合が起きたとき、問題を垂直か水平かという空間的認識によって捉えなおすことで、斜めに向かうオルタナティブな解決法を模索できるのではという示唆が得られた。 また、何となく耳にはしていた「当事者研究」や「オープンダイアローグ」というものが何なのかわかってよかった。 それと、ラカン、中井久夫、上野千鶴子、信田さよ子、ガタリ、ハイデガー、フーコーといった面々の、本書で部分的に扱われている議論や語りは、網目状に触手を伸ばす知識のネットワークとして、いつかどこかで繋がっていくのだろうという予感。
  • 2026年5月17日
    レイシズム (思考のフロンティア)
    ツイッターのフォロイーが挙げていた同シリーズの『ジェンダー/セクシュアリティ』が貸出中だったのでまあいいかと思ってやはり興味のある分野であるこちらを借りたのだった。 第1部で人種差別主義とは何かを概説し、第2部でそもそも言語システムに組み込まれているという、差別感情を引き起こす構造を浮き彫りにする。そして第3部ではそれらの概念を踏まえ、発禁処分になったという永井荷風の『悪寒』を読み解く実践編になっている。 短いし読みやすいので入門としてよい。要点をまとめながら再読したことで理解が大変深まった。 第3部のテクスト批評が細かな言い回しも見逃さない精緻な分析がほどこされていておもしろかった。この『悪寒』という小説?エッセイ?は、うっかりすると永井荷風って西洋かぶれのめちゃくちゃ嫌なやつじゃんと読めてしまうのだけど、筆者によると意図的に書かれたのだという。だとしたら永井荷風ってめっちゃすごいじゃんとなる。 ──────────────── Ⅰ 「人種差別主義」とはなにか “人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである。” 『エンサイクロペディア・ウニヴェリサリス』/アルベール・メンミ ・狭義の人種差別主義→生物学的差異に基づく。19世紀後半、帝国主義的植民地支配を正当化。 ・広義の人種差別主義→生物学的差異にかかわらない。 差異を価値づける。(優越性/劣等性) 否定的差異の社会的かつ歴史的一般化と全体化。→個別性を排除、普遍的なものとして実体化。 暴力的に支配する側の、不当に利益を得ているという罪悪感・負い目、および特権を奪われる不安・恐怖。→人種差別主義の論理によって自己正当化・歴史的因果関係に対する思考停止。 異質性嫌悪(ヘテロフォビア)=見慣れぬ他者に対する恐怖。自らの攻撃性を自覚しているがゆえに、他者から攻撃されるのではと不安をおぼえる。 動物の場合、相手が自分より強い→逃亡/弱い→攻撃 ネイティブ・アメリカン、アイヌの人々の神話。 自分たちが命を奪った動物を神格化。罪と他者性(差異)を認めることで共生する。 Ⅱ 言語と差別 人種差別主義の根本にある言語システム。 社会からの排除と囲い込みを可能にする「汚い」「臭い」をキーワードに、フロイトの口唇期・肛門期の理論をもとに人間の言語習得の過程を説明。 「キタナイ!」「クサイ!」とは、 ・社会的な規準、宗教的価値観、性差の文化的規準、排泄行為をめぐる習慣、浄と不浄の空間分類、排除と囲い込みの論理等、社会規範の網の目の役割を果たす。 ・恐怖と不安をもたらし、欲求不満=フラストレーションを引き起こす。また、他者に対する攻撃性を持った言葉。 ルネ・ジラール=赤坂憲雄のスケープゴート理論に対する佐藤裕の差別論。 差別者と共犯者との間で行われる言語コミュニケーションによる同化→被差別者に対する見下しと他者化の構造の維持・再生産。 同化させられてしまった共犯者が自己正当化するために偏見を形成(原因と結果の転倒)。 「われわれ」のカテゴリー化(=同化)をすることで他者化が可能になる。 有徴である排除される側(=客体)と無徴である排除する側(=主体)の非対称性。 〈やってはいけないこと〉を「なぜ」と問うことで〈やってよいこと〉を明らかにする。 否定的な性質・他者性の記号の原因を言語化→肯定的な性質・「われわれ」の記号を明示(=カテゴリー化)。 排除される恐怖から「言語の意味の体系」に同化する。 サイード『オリエンタリズム』 オリエンタリスト=書く人/オリエンタル(東洋人)=書かれる人 異文化として表象する行為=「われわれ」の言語システムのなかで二項対立(紋切り型)の否定項によって対象化。 差別を乗り越えるために、「なぜ」と問い続けることで政治的な力関係の非対称性を言語的・合理的に認識する。 自らが使用する言語システムに常に批判的であること。 Ⅲ 人種差別主義の言説 永井荷風『悪寒』 オリエンタル(東洋人)を自己として描いた典型的なオリエンタリズム的言説。 コロンボからシンガポールへ到着したという地政学的差異によって、それまで欧米列強に同化していた自己が、まさにオリエンタリズムの対象であるオリエンタルであることを自覚させられる。 「キップリング」を思い、「熱帯の美」に酔わされていた「我が心」。 野蛮から文明に至る植民地主義的な少年向け冒険小説(キップリング)。 大衆娯楽によって表象された熱帯をめぐるオリエンタリズム的言説。→欧米列強の欲望。 主人公は近代国民国家である大日本帝国を嫌悪の対象とする。 「ひどい力役の国」の一員であることに気づく。→〈かれら〉と〈われわれ〉という非対称な関係の逆転。 脱亜入欧を果たした〈われわれ〉=読者も東洋の一員であるということ。 甲板で目撃した三人の日本人親子連れ。 大日本帝国のあるべき男性像を肯定的な言葉で描写しながらその価値観を転倒させる。 野蛮と家父長制を体現する母と子。 現地人に向けられた典型的な人種差別主義的嫌悪のまなざしを日本人の母親に対しても同等に向けることで「大日本帝国」の女性差別を浮かび上がらせる。 “欧米列強に伍する「大日本帝国」の一員”として、“フランス語の翻訳語の日本語”で現地人に対するオリエンタリズム的言説を書く。 ↓ “同じ日本人”を対象にして“日本語”でオリエンタリズム的言説を書き続けることでその矢印が自分自身に向かう。 ↓ 言語システムが崩壊し,日本語はもはやフランス語の翻訳語として機能しなくなる。→フランス語が翻訳できない事態に。 自己植民地化を推し進めた国による自己オリエンタル化。 固定化された感情的二項対立(思考停止)をアイロニーによって突き崩す。→人種差別主義に対抗する言語実践。
  • 2026年5月10日
    生物から見た世界
    生物から見た世界
    國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』で出てきていていつか読もうと思っていたのだった。 生物それぞれに環世界というものがあって主観的な感じ方が異なるという話。 生物学の範囲は越えるが、人間どうしでも同じ世界に生きていると思い込んでコミュニケーションに齟齬が生じるケースはままあるなとか、同じ人間でも徒歩と自転車と車では世界の見え方がかんたんに変わるよなと思うなど。
  • 2026年5月2日
    西の魔女が死んだ
    児童文学はほとんど読んでこなかったけど誰かの投稿を見かけて手に取った。 メンター役のおばあちゃんふくめて大人が誰ひとり完璧ではなく、性格も価値観もばらばらで多面的に描かれているのがよかった。 子どものころ読んでいたら表面的なところしか理解できず、学校休んで自然に囲まれた家でジャムとか作っていいなーとしか思わなかった気がする。 最後はそら泣くやろって感じ。 “おばあちゃんはそれをふわりとラベンダーの茂みの上に広げた。 「汚れない?」 「さっき、上から水をかけておいたのできれいです。こうすると、シーツにラベンダーの香りがついて、よく眠れます」”p.83 “「じゃあ、魔女って生きているうちから死ぬ練習をしているようなもの?」 「そうですね。十分に生きるために、死ぬ練習をしているわけですね」”p.118 “まいは声が上ずらないように気をつけた。まだ完全におばあちゃんと和解したわけではないのだから。ああ、こういうことって、なんてわずらわしいのだろう。”p.176
  • 2026年4月30日
    十二神将変
    十二神将変
    ミステリだけど謎解き部分は個人的にはけっこうどうでもよかった。 それよりも文章そのものが手の込んだ細工を凝らした絢爛豪華な工芸品のような趣があってそこに感銘を受けた。 ページを開くとまず旧仮名遣いに面くらい、ルビなしの知らない漢字と聞いたことのない単語に難儀しながらも読み進めるうちに、その言葉が織りなすリズムと世界観に陶然としてくる。 食事や着物、植物、宝石をめぐる描写は美術品を眺めているような気分になるし、これは日本語でしか堪能できない文学体験。 音読すると気持ちよくて3分の1くらいは声に出して読んだ。
  • 2026年4月29日
    天使エスメラルダ
    天使エスメラルダ
    10年越しくらいか、だいぶひさしぶりのデリーロ。 1979年から2011年までの9つの短編を、現代アメリカ文学の翻訳でおなじみの面々が訳している。 資本主義やテクノロジー、テロリズム、あるいは信仰といったテーマとか、何ともとらえどころのない、しかし現実にぎりぎり起こりそうな不条理とか、真顔のユーモアとか、そういえばこんな感じだったかなと、むかし読んだ長編の雰囲気を思い出しながら読んだ。 新訳のホワイトノイズを読みたい。
  • 2026年4月26日
    ビーバー
    ビーバー
  • 2026年4月26日
    道路をわたる動物たち
    道路をわたる動物たち
    図書館の新刊コーナーに。『私がビーバーになる時』みたいな話か?と思ったら著者は『ビーバー 世界を救う可愛いすぎる生物』という本も書いているらしい。映画とは無関係ぽいけど。
  • 2026年4月26日
    10:04
    10:04
    各エピソードが映像的で記憶の残りかたとしては映画を一本観たよう。 文章中になにげなくちりばめられたユーモアのセンスにシンクロできて同時代の人だなという感じ。やっとオレたちの仲間がきたな、というか。 インテリでナイーブでイケすかなくて、最近読んだウェルベックやパワーズ、あるいは村上春樹を思い出した。 著者は詩人として出てきた人みたいだけど小説も書き続けてほしい。 生きていればいつか再読するだろう。そういう本。 “てか、これってウォール街占拠の目的とは全然違うんですけど、俺は男を常に喧嘩の強さで測るのをやめにして、あそこの重さが一トンあるみたいな仕草もやめた。すると、世界が少し違って見えてきたんですよ。”p.59 “それは人種的そして階級的な不安を解消するための、新しいタイプの生政治的な語彙だった。「肌の色が茶色い人や黒い人は生物学的に劣っている」と言う代わりに、「彼らが摂取している食品や飲み物が悪い」──そうなっている原因は本人たちのせいでもないし、その状況には同情する──と主張する。”p.111 “14丁目では新たな乗客の一団が乗り込み、ロベルトと僕の間に人が割って入った。もしも僕とロベルトが人種的に似て見えていたら誰も間に割り込まなかったかもしれない、などと考えながら僕は人混みを押し分けて彼のそばまで進み、手をつないだ。”p.164 “二〇〇〇年世代の女性が取る、配偶者選びの新しい戦略において最優先されるのは、核家族を形作ることではなく、面倒な父親を遠ざけておくことだ。”p.171
  • 2026年4月24日
    口訳 太平記 ラブ&ピース
    朝廷と幕府、それぞれの権力闘争。時系列を行ったり来たりしながら複雑な人事の話が続く。中学教科書レベルの薄い知識しかなく日本史に明るくないから膨大な人名と関係性、それと統治システムが把握しきれない。いちおう後醍醐天皇は出てきた。これから物語がドライブしていくんですか。 ────────────────── 100ページあたりから本題に入っておもしろくなってきた。 おなじみのボケとツッコミの会話を交えてテンポよく進む。 ────────────────── 読了。安定のおもしろさ。この独自の文体を発明したのが何よりもすごい。
  • 2026年4月21日
    庭のかたちが生まれるとき
    その石はなぜそこに置かれたのか。 著者が実際に庭づくりの現場に立ち会い、その生成過程をつぶさに観察する。 設計図を持たない庭師によって即興的に置かれる石。 最終的にどのような庭が完成するのか、なんと誰もわからないという。 親方の意図は?根拠は?そのあいまいな言葉に翻弄される職人たち。 人と物を結びつける場の力学に支配される庭という名の小宇宙。 偶然から出発して必然になっていくものづくりのプロセスを考察して言語化するさまはスリリング。 硬軟ちょうどいい按配の文体で読みやすい。 “素材や条件の「求めるところ」、つまりそれらの本性にしたがえば必然的にこうなるもの。つくることにたいして意識的でありながらもらつくられたものが非意図的なものになることを目指す無名の技。こうしてつくりだされるものは自然化され、あると同時にないようなものになる。”p.181 “「石組みはこうでしかありえなかった」──古川はあくまでも意図を否定し、庭の最終的な我有化、あるいは作品化を、つまり「ありてある庭」を拒否し続ける。しかしここで語られた構想は庭を、あるいは石組みをひとつの造形的な関係として分析してきたこれまでの観点を否定するものではなく、むしろ拡張するものだ。庭は内部の造形的関係の束でもあり、同時に外部との造形的関係の束でもある。”p.198 “偶然的に隣りあい、相互に矛盾や軋轢を抱える複数の物/者を係争状態のまま並置していくとき、この構成をギリギリ成立させているのは関係であるとともに、必要以上に相互を関係づけないこと、ようするに、部分的な非関係を継続することでもある。 偸むとはおそらく、ディスコミュニケーションを確保することによって最低限の物/者の共同性を縫い上げる非関係の技法でもある。”p.243 “「歩かせえよ!力なんかいらんのや。石に歩かせるんやで!」”p.259
  • 2026年4月19日
    私の小説
    私の小説
    半径三メートルの私生活の描写と哲学的な省察を繰り返す。 エッセイかと思いきや、とうとつに架空の作家による架空の書籍が引用される文章は、作中で“擬”私小説と呼ばれるとおり、著者自身を主人公とした小説ともとれ、その虚実はあいまいに描かれる。 図書館で気まぐれにとった本書だが、はじめての町屋作品がこれで正解だったのかよくわからない。青春小説で売れたようで、そちらをいつか読んでみたい。
  • 2026年4月18日
    ナチスのキッチン
    “それゆえ、十九世紀中頃から二十世紀中頃までのドイツの台所の歴史は、ナチズムの時代になると混乱をきたす。なぜ、バウハウスを攻撃しながら、テイラー主義を否定しなかったのか。「血と土」と「合理化」はどうして並存できたのか。「労働調和」への希求と銑鉄労働者を牡牛に喩える世界観が併存するテイラー主義の矛盾と、どこかに関係はないのか。「伝統」と「テクノロジー」の共存は、しばしば指摘されるナチスの二律背反であるが、この問題に台所という視点から迫ってみること、これが本書の目的である。”p.26 “それゆえに、本書は台所の諸構成要素の関係史、つまり台所の環境の歴史であり、同時にまた台所の思想の歴史でもある。ほかの生きものを食べなければ生きていけないヒトの「外部器官」、自然を改変する人間の作業の最終地点、あらぶる火の力に対する信仰と制御の場、人間社会の原型である男女の非対称的関係の表出の場──つまり台所とは、人間が生態系のなかで「住まい」を囲うときにどうしても残しておかなくてはならない生態系との通路なのである。このような見方をすることで、台所で行為する人間を「労働者」、台所仕事を「労働」という近代的概念によって規定してしまうことで漏れ落ちる、台所の生態学的な性質を救い出すことができるのではないか。”p.35 “労働の代価として、生命をギリギリで保つ分量のパンとスープだけしか与えないという施設は、人件費を極限までゼロに近づける資本主義によって実現された「ユートピア」でもある。この、一度表出した無意識は元に戻りえないし、現に戻っていない。ナチズムは、テイラー主義によって、資本主義の無意識を暴走させたのである。”p.425 ナチス政権下、戦争に勝つため限られた資源を無駄なく利用する必要に迫られた結果、徹底的な合理化、人間の機械化が推し進められた。 その犠牲になったのは、台所の主婦であり、強制収容所の囚人であった。 ナチズムの精神は、成長至上主義を掲げる資本主義というかたちで現在も生きている。 それは自然と人間社会、双方の循環システムを無視することで歪みをもたらす。 食という芸術に光をあて、台所を救出、再生せよ。 人間を人間でなくさせる資本主義からわれわれの美を奪還せよ。
  • 2026年4月15日
    アントカインド
    アントカインド
    長いなー。この長さは何か意味あるのか。 読了。 時制や語りのレイヤーが錯綜して自分が何を読んでいるのかしばしば迷子になった。 偏見が強すぎるがゆえに滑稽にならざるをえない主人公の視点で語られる長大な物語。膨大な映画ネタやことば遊び、ツッコミのないボケの数々。 さりげなくギャグを入れ込む文章の勉強になる。 “スターバックスはお馬鹿な人のためのお利口なコーヒーだ。いわばコーヒー界のクリストファー・ノーランだ。”p.14
  • 2026年4月3日
    美の歴史
    美の歴史
    文章が頭に入ってこない。前提とする知識が必要な書き方にもかかわらず、その知識がある人にとってはあらたな知見が得られるのかよくわからない。断片的なので論を構築するという感じでもないし。訳が不自然な箇所もあり。章を追って美術史の大まかな流れを確認しながら絵を中心に眺め、文章は流し読みでいいのでは。
  • 2026年3月30日
    何も共有していない者たちの共同体
    何も共有していない者たちの共同体
    “私は、病院であれ貧民街であれ、孤独に死にゆく人を見捨てるような社会は、みずからその土台を根こそぎにしているのだと考えるようになった。私たちと何も共有するもののない──人種的なつながりも、言語も、宗教も、経済的な利害関係もない──人びとの死が、私たちと関係している。この確信が、今日、多くの人びとのなかに、ますます明らかなかたちで広がりつつあるのではないだろうか?”p.12 哲学的エッセイというジャンルを知った。この手の本があればもっと読みたい。 リンギスの個人的な体験を交えて、時に詩的につづられる哲学的考察。その文章はつかみかけたと思ったら指の隙間からすり抜けてしまうようで、理解しきれたとはとてもいえない。 言語を共有しコード化することで個人が交換可能な存在になる近代合理主義では捉えきれない、共有するものを持たない者どうしの、〈私〉でなければならないノイズに満ちたコミュニケーション。 インターネットにおいて顔の見えない相手との攻撃の応酬が日常となっている現在の状況に倦んでいる身としては、あらたなパースペクティブが示されるようだった。
  • 2026年3月21日
    ジャック・ラカン
    フロイトのいわゆる「五大症例」をラカンはどのように読み解いたか、その理論を紹介することでラカン入門とするコンセプト、ではあるが、やはりフロイトの「エディプス・コンプレクス」や「去勢」という概念からしてあいかわらず飲み込みづらく、ときに文学的にも感じられる説明がなされるラカン独自の概念となると、すでにある程度この分野に馴染みのある読者でないと理解できないのではないか。途中までついていったが、第四章の症例シュレーバーで振り落とされてしまった。決定版の入門書などはなく、関連書をいくつも読んで重ね塗りするように知識の穴を埋めつつ理解を深めるしかない、というのが読後の感想。
  • 2026年3月18日
    ハルムスの世界
    ハルムスの世界
    一編が数ページ程度の不条理短編集。ユーモアと死と暴力の匂いをまとわせる抑制の利いた文体。 発表する機会もなく「机の引き出しのために」執筆されたこれらの作品が、表現活動が制限されたソ連スターリン政権下でしか生まれなかったとすれば、自由が保障された世界にハルムスが生きていたらどのような小説が書かれたのかと想像せざるを得ない。 平易で読みやすくも読者を欺きつづけるナンセンスな文章が、われわれが生きる現実の不条理そのものを反映させていると考えれば難解と感じる必要はない。それはそもそも人間の理解を受け付けるものではないのだから。
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