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プールに降る雨
プールに降る雨
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@amewayamanai
  • 2026年9月28日
    戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない
    第一章では、国際刑事裁判所(ICC)がプーチン大統領やネタニヤフ首相らに逮捕状を発付したことからロシアとアメリカ両大国政府から受けた激しい反発などが語られる。 つづく第二章では、ICCの成り立ちから組織の構成、手続きの流れがていねいに説明される。 合間にコラムとして、ICCがこれまでにあつかった17の事件の経緯が編集部によってまとめられている。 第三章では、赤根氏の生い立ちから検事時代までが、直面した数々の女性差別のエピソードなどを交えて語られる。 最後の第四章では、ICC締約国の増加のために東京などに広報を目的とした事務所の設置を目指す展望が語られる。また、戦争犯罪などに対処するための国内法の制定、日本のジェノサイド条約の批准を提言。 2023年7月、帰国中、ロシアから指名手配を受けたことをNHKのニュース速報で知った赤根氏。ICCがウクライナ侵攻にともなう戦争犯罪の容疑でプーチン大統領に逮捕状を発付したことに対する報復だった。 2024年11月、ICCがガザ地区における戦争犯罪などの容疑でイスラエルのネタニヤフ首相らに逮捕状を発付。2025年2月、それに反発してアメリカのトランプ大統領はICCへの制裁を可能にする大統領令に署名。 制裁の内容は、アメリカ国内の資産凍結・アメリカへの渡航禁止・アメリカ企業との取引禁止。しかし、規定があいまいなので恣意的に対象の範囲を拡大できる。 現在、制裁対象はICCの裁判官・検事・職員などの個人だが、ICCそのものが対象となれば組織の存続が危ぶまれる。 近年、ICCに対して何者かによるサイバー攻撃が繰り返し行われているため、絶対に流出させられないデータはデジタル化を避けている。 また、2022年6月にはインターンシップを利用して潜入しようとしたロシアのスパイがオランダ当局に逮捕されている。 ICCは、ニュルンベルク裁判、東京裁判、旧ユーゴスラビア国際刑事法廷、ルワンダ国際刑事法廷などを経て、1998年のローマ会議で採択された「国際刑事裁判所に関するローマ規程」によりオランダ・ハーグに設立。個人を処罰できる常設の独立した国際的な刑事法廷。ローマ規程の締約国は現在125カ国・地域。アメリカ・中国・ロシア・イスラエルなどは非締約国。 混同されがちな「国際司法裁判所」は国連の機関であり、国家間の紛争をあつかう。 ICCが対象とする四種類の中核犯罪とは、ジェノサイド犯罪・人道に対する犯罪・戦争犯罪・侵略犯罪。 ローマ規程が発効した2002年7月1日以降に起きた事件を対象とする。2003年のウガンダから始まって、コンゴ民主共和国、中央アフリカ、スーダン、ケニア、リビア、コートジボワール、マリ、パレスチナ、ジョージア、ブルンジ、フィリピン、ベネズエラ、バングラデシュ/ミャンマー、アフガニスタン、ウクライナまで17の事態をあつかう。 ICCは、当該国家が中核犯罪を裁く能力、あるいは意思がない場合のみ補完して裁く。 捜査が始まるきっかけ、「トリガー」 ①締約国が事態を検察官に付託する場合 ②国連の安全保障理事会が事態を検察官に付託する場合 ③検察官が自らの意思で捜査に着手する場合 予審を経た第一審と上訴審の二審制。
  • 2026年9月26日
    フーコー『言葉と物』を読む
    フーコー『言葉と物』を読む
    この解説書が理解できるなら解説書は必要ないだろうというパラドキシカルな本。
  • 2026年9月26日
    言葉と物〈新装版〉
    言葉と物〈新装版〉
    山登りにおいて少しでも違和感をおぼえたら迷わずもと来た道を引き返すというのが鉄則であり、遭難する人というのは、せっかく苦労してここまで来たのだからいまさら戻れないとか、下っていればいつか抜けられるとかいって、けっきょくにっちもさっちもいかなくなる、ということを、『言葉と物』という名の山のなかに横たわるみずからの屍を眺めながら思い出した。
  • 2026年9月25日
    ボヴァリー夫人
    ボヴァリー夫人
    蓮實重彥のボヴァリー夫人論を読みたかったので再読。 前回はたぶん岩波文庫。そのときはメロドラマ的な話が長々と書かれたこの小説がなぜ文学史上の傑作とされているのかよくわからなかった記憶。 今回読んで、あたらしい訳のおかげもあってか、現代でもぜんぜん通じる内容、つまり、制度上の「女性」を強いられた女性の物語なのだと気づいた。ボヴァリー夫人(エマ)がTwitterをやったら夫の悪口をめちゃくちゃ書いて男女論で盛り上がってそう。 それと、19世紀の小説なのにじつに映画的。特にフローベールが力を入れて書いたという共進会の章の、群衆が集まる祝祭的な空間と個人的な秘めごとを対比させ、さらにふたつの場面を早いテンポでカットを切り替えるように描いて効果を上げていく技法にはおどろいた。 とはいえ全体的にいえば、いまとは時間の流れかたが異なる百年以上前の作品なりの長さは感じた。当時、エマに感情移入して胸と目頭を熱くさせた読者もいるのかもしれない。
  • 2026年9月21日
    ゆれる水脈
    ゆれる水脈
    Twitterで見かけた。 “ロラン・バルトの『明るい部屋』のように書きたかった”らしい。
  • 2026年9月18日
    菜食主義者
    菜食主義者
    原文で読んでみたいと思った作家は初めて。
  • 2026年9月18日
    大江健三郎全小説 第7巻
    『洪水はわが魂に及び』読了。 大江健三郎の小説は読むのに時間がかかる。行間を埋め尽くすように緊密に構築された文体であるということにくわえて、作品世界のリアリティの水準が見極めがたく、何が起こるかが予測しづらい。要は、油断がならない。 文体や世間的なイメージがかけ離れているから気づかなかったけど、象徴的なモチーフを配置しながら興味を惹く回想や挿話を交えつつ、現実のうらおもてをひっくり返すような独自の世界観を描く作家という意味で村上春樹を連想した。 謎と緊張感のある前半に比べて、舞台設定の全容が明らかになったあとの後半は、「自由航海団」の不毛な内輪もめが延々とつづいて、はやく何か起こってくれよと思ったけど、ラストのラストに向かう最後の数章の盛り上がりのための長い前振りだったのかもしれない。タランティーノの『デス・プルーフin グラインドハウス』みたいな。 今後、食材がほんとうに何もないときは、ゆでたスパゲッティにバターをからめて粉チーズをかけただけのものを食べてみたい。
  • 2026年9月17日
    創作のルール
    創作のルール
    チャック・パラニュークが書くならおもしろいのでは、と思い。 パラニュークらしい直接語りかけるような軽妙な文体で(といってもまともに読んだことない)小説のテクニックについて語られるのだけど、すぐに話が逸脱して、にわかには信じがたい逸話の数々が披露される。指南書に見せかけたエッセイ本ではないかと疑問が頭をもたげたところでまた実際的な技巧の解説に戻っては脱線してを繰り返し、最後のほうは人生の深いい話になって終わると見せかけてなかなか終わらなくて受ける。 日本語ではまた違うのかも知れないけど、動詞の使いかたで読者の受け取りかたが変わるという話が考えたこともなかったことだったので興味深かった。 “be動詞、have、そして思考動詞を排除せよ ある読者が『サイエンティフィック・アメリカン』から切り抜いて送ってくれた別の記事によれば、 人は動詞の種類によって異なる反応を示すことが研究で明らかになったという。 “踏み出す”“蹴る”“つかんだ”といった、能動的で身体的な動詞を読むと、その動作を司る脳の部位が活性化する。脳は、実際に泳いだり、くしゃみをしたりしているかのように反応するのだ。 ところが、isやhasのどんな形を読んでも、それに対応する脳活動は起こらない。“信じる”“愛する”“思い出す”といった抽象的な動詞も同様だ。共感的認知ミラーリングとか何とかいうものは、 いっさい発生しない。 だから、《アーリーンはドアのところにいた。彼女は長い茶色の髪をして、その顔には驚きの表情があった。彼が覚えているよりも背が高かった・・・・・・≫よりも、《アーリーンが開いた戸口に姿を現した。手袋をはめた手で、長い茶色の髪を顔から払いのけた。ペンシルで描いた眉が驚きに持ち上がった・・・・・・》のほうが、はるかに引きが強い。 それを踏まえて、僕ならisやhasはどんな形であれ避けろと言うだろう。そして、抽象的な動詞も避けて、読者自身が思い出し、信じ、愛することのできる状況を作り出せ、と助言するだろう。どう感じるべきか、指図してはならない。きみの仕事は、書き手が望む感情が読者のなかに生まれる状況をお膳立てすることだ。” p.131
  • 2026年9月12日
    大江健三郎全小説 第7巻
    長編なら何がいいか聞いたらすすめられた『万延元年のフットボール』を読了。 なんというか、いろいろ盛り込んだデラックス丼のような小説。サービス精神旺盛。ぜんぶ嘘なのに読後も頭のなかに物語世界が居座ってしまう並外れた筆力。 つぎは『洪水はわが魂に及び』。
  • 2026年9月12日
    ヒロシマの光
    ヒロシマの光
    ヒロシマ・ノート、そのほか広島の原爆関連の文章。 戦争の惨禍は歴史上の一点において終息するものではなく世代を超えて連綿と続くということを、戦後八〇年以上経った現在の視点から、戦後二十年の広島の現状を取材した大江の切迫した文章に重ね合わせながら読むと、被爆者の受けた苦難は身体的なものばかりでなく差別や政府による冷淡な対応という現在まで引き継がれる社会的な構造によるものであることが浮き彫りになり、進歩発展とはやはり幻想なのかと暗澹たる気持ちになる。 2024年に被団協がノーベル平和賞を受賞し世界から注目されたいっぽうで、ことしの平和記念式典のあいさつにおいて、主体性をあいまいにした言いまわしで将来的にも非核三原則を堅持するとは“宣言しない”首相が過半数の支持を得ている現在に危機感をおぼえる。 “ある日、かれは、年長の医師に、戦争が終ったあとまで、なぜ広島の人間がこのように苦しまねばならないのかと議論をしかけ、当然のことながらそれに納得のゆく答をえられないまま、三十分後、崩れた壁のなかから剝きでたボルトに綱をかけて縊死した。戦争が終ったあとまで、と青年歯科医は考え、そしておそらく、じつは広島の人間にとって、真の悲惨な戦争が、なお終っていないことに気づいたのだ。なお数十年にわたってつづく(それはいま、すでに二十年つづいている)、あるいは、次の世代の原爆症の問題として、いつまでも果てしなくつづくかもしれない、そういう最悪の疑わしい戦争が始ったばかりであることに思い到って、かれはついに縊死をえらぶほかなかったのだ。” p.103「屈服しない人々」 “戦争直後、戦争の悲惨を中心に置くとすると、日本人はそこから四方にむかって逃げだした。すなわち戦争の悲惨を遠巻きにするドーナツ型が、われわれの生活形態であった。ところが消費文明の繁栄の今日、人々は戦争の悲惨を底辺に置きざりにして上へ、上へと逃げ、そこにはオリンピックを頂点とするピラミッド型ができあがった。しかし、このピラミッドの内部の暗闇の空洞は、決してうずめつくされたのではない。広島の人間的悲惨はそこに存在しつづけているのである。” p.139「広島へのさまざまな旅」
  • 2026年9月8日
    シュグデン
    シュグデン
    図書館の新刊コーナーで見かけ、裏表紙に書かれたあらすじを読んだらおもしろそうだったので。 “青海省のチベット僧院で起きた不可解な銃撃死事件。捜査に当たった警察犬トレーナーのセルジャムツと、他界した僧の親友サマンダが出会い、死の謎を追ううちに信仰の深奥へと迫ってゆく。歴史的背景を織り込みながら、分断されたモンゴル民族の記憶とアイデンティティを問いなおす。” 薔薇の名前を連想したけど、導入こそミステリテイストではあったものの、なかなか捜査しないし密室感もなく、そういう感じではなかった。 内モンゴル自治区の警察官と故人の親友の学僧のふたりを軸に話が進む。モンゴル人としてのルーツをたどる形で清朝・中国共産党の圧政と独立運動が語られたり、仏法に仕える身としての懊悩から、あるいは事件の真相を探る過程でチベット仏教の教義が描かれる。宗教と歴史にかんする見慣れない単語もばんばんでてくるし、モンゴル人は歴史的に大陸に散らばって暮らしてきたという意味では、スケール感と読み応えのある作品だった。日本翻訳大賞の候補になりそう。 子どもが犬に乗って遊ぶ場面があり、チベット犬で検索したら熊みたいにでかくて笑った(チベタンマスティフというらしい)。
  • 2026年9月7日
    タイム・シェルター
    タイム・シェルター
    イザベラ・ハンマードの著作で本書の引用箇所を読んだとき、それっていまのことかもと、うすら寒い思いをしたのだった。 “ブルガリアの作家、ゲオルギ・ゴスポディノフの二〇二〇年の小説『タイム・シェルター』において語り手は、歴史は事後的にしか歴史とならないことを指摘しています。第二次世界大戦の始まりについて語り手は次のように言います。「おそらく一九三九年に一九三九年は存在せず、人は頭痛と不安と恐怖を抱きながら目を覚ます。そんな朝が続いていただけなんだ」。” 『見知らぬ人を認識する』p.10 最初、全然頭に入ってこなくて、やはりSFは合わないのかと途中で読むのをやめかけた。が、思いとどまり、訳者あとがきとほかの人の感想を読んで概要を何となくつかんでからふたたび読み進めた。 精神科医ガウスティンは、アルツハイマー症・認知症の治療のためのクリニックを開院する。その治療法とは、さまざまな時代を再現した部屋で、患者にもっとも幸福だった過去を思い出してもらうというものだった。好評を博したそれは、やがて一般利用客にも開放され、さらに拡大して欧州各国の国家プロジェクトになり……。 読みながら混乱した理由は、ガウスティンが時空と虚実のあわいを行き来する存在として描かれるうえに、そこにクリニックの手伝いをする、作者の分身ともいえる「ぼく」の思索と回想、さらに患者の体験などが代わるがわる差し挟まれる構成のためだった。しかし、このように時間とメタ構造の境界をあえて融解させ、読者を振り回す書き方をすることによって、ゴスポディノフは患者の変容した認知機能を主観的に再現しようとしていたのかもしれないと、あとになってから思ったのだった。 戻る時代を決める国民投票が行われる第四章は、欧州の現代史をうっすらとでも知っていたほうが理解しやすい。もしこれが日本で行われるとしたたら、どの時代が選ばれるのか。将来に希望が見出せた高度成長期か、浮かれていたバブル期か、はたまたいっきに戦前まで戻って、こんどは戦勝国を目指すのか……。 “一九三九年九月一日に、ウィスタン・ヒュー・オーデンは、ニューヨークで目覚め、 こう日記に書いている。 Ch.がぼくに裏切りをしている悪夢の夜の後、頭痛で目が覚めた。新聞各紙は、 ドイツがポーランドを攻撃したと書いている……………… さあ、ここに、本当の始まりのなかに、すべてがそろっている──悪夢、戦争、そして頭痛。” p.31 “ねえ、分かるかい、いつの日か、それもすぐ近いうちに、多くの人びとが、自分の意志で記憶を「失くす」ために、すすんで過去に戻って来るようになるから。ますます多くの人びとが、元に戻って洞穴に隠れたいと思うようになるぞ。しっかりした理由があるわけじゃないけれど。ぼくたちは、過去という爆弾を避けるシェルターを準備しなければならないね。お望みなら、それをタイム・シェルターと名づけよう。” p.61 “一九六八年にはまだ一九六八年は存在していなかった、と思う。よー、今、おれたち生きているこの時はさあ、偉大な六八年でよ、歴史に残るんだぜ、なんて、当時、誰も言ってなかった。すべては、それが起きた数年後に起きるのだ・・・・・・。すでに起きたことを起きるようにするためには、時間と物語が必要で・・・・・・、かつての写真を現像すると、薄暗い暗室のなかで画像がゆっくりと浮かび上がるように、遅れてやってくる・・・・・・。おそらく、一九三九年にも一九三九年はなく、頭痛と不安のなかで目覚めた朝があったのだ。” p.347 “ある歴史的事件が実際よりもずっと昔のことのように思われるのはどうしてなのか、 ぼくらは、そんなことは、ともすれば意識することすらない。ぼくが生まれたとき、 第二次大戦は、ほんの二十三年前のことでしかなかったのに、いつもまったく別世紀のように思えたものだ。  気をつけろ、歴史ってのは、バックミラーに見えるよりも、いつもずっと近いんだ ぞ・・・・・・ってガウスティンならこんなことを言いそうだな。” p.374 これは、やはり、いまのことなのかもしれない。
  • 2026年9月7日
    夜明けのすべて
    夜明けのすべて
    映画が腰を抜かすほどよかったので。 小さな会社を舞台にPMSの女性とパニック障害の男性の交流を描いた話。 映画化にあたって改変された点を特に意識しながら読むとおもしろかった(小説としては説明的、かつクリシェ的表現が気になって好みのタイプではなかった)。 小説では、ふたりの主人公の視点を交互に切り替えながら、会話と心情独白と病気の説明を中心に日常を淡々と描く。対して映画では、 ・より動きがあり、映像的・音声的な場面に置き換えられている(草むしり→洗車、倉庫開放→プラネタリウム、映画オリジナルのカセットテープ、映画オリジナルの中学生取材班)。 ・脇役が前景化し、物語に有機的に絡んでくる(山添の恋人、山添の上司、藤沢の母、社長とそのおとうと)。 ・クライマックスに向かってストーリーが直線的になっている(と同時に、ふたりの協力関係と相互理解が深まる)。 小説で気になった点(映画ではすべてオミットされている) ・ジャスミン茶をカフェインのない飲み物として描いている(ジャスミン茶の原料はおもに緑茶か烏龍茶)。 ・主人公ふくむ会社の女性ふたりが業務でもない事務所の清掃をルーティンとして自主的に行なっている(男性は汚れが気にならないものとされている)。 ・周囲の年上の人間がにやにやしながら主人公ふたりを恋愛関係にあるものとして見たがる。 ・女性主人公の病室(同室者がいる)に家族でもない男性主人公が見舞いに行って長時間滞在する。
  • 2026年9月6日
    ギリシャ語の時間
    ギリシャ語の時間
    ハン・ガンを読んでいると世界が静まり返る。
  • 2026年9月5日
    大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件
    大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件
    知り合いがおもしれーといっていたので。 博物館から希少な鳥の剥製が盗まれた事件を追うルポ。半分くらいまで読んでこのあとどうするんだと思ったけど後半の追求のほうがおもしろかった。これも帝国主義のゆがんだ傲慢さが行き着いた先の犯罪といえるなあ。
  • 2026年9月5日
    曖昧な弱者の時代
    映画『急に具合が悪くなる』の感想で、ホワイトボードに描かれた「周縁に追いやられた人びと」から、共和党支持者にインタビューしたルポ『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』を想起したということを書いたら、日本での類似する状況を論じた本書をすすめられた。 上下・左右・新旧の格差という社会的な背景から昨今の状況が説明されていて、以前からどうしてそうなるのか謎だったネトウヨとかミソジニストとか現政権支持者も一定の理路があってそこに行き着いているのだなということは納得できた。データに基づかない論考はいきおい「ではないか」とか「だろう」という憶測の文末が多用され、共感できる部分もあれば、そっすかねと感じる部分もあったが、全編を通して図式的に論じられるので頭の中がばちばちっと整理されてすっきり感は得られた。すすめてくれてありがとう。 以下、まとめ。 貧困層や高齢者、文化的マイノリティといった、リベラル左派が認定する「明白な弱者」に対して、困窮を感じながらも支援を受けられず憤懣と報われなさをつのらせた者を「曖昧な弱者」と位置付ける。 第1章ではひろゆきが「曖昧な弱者」に支持される背景を、第2章では山上徹也のTwitterアカウントの分析を通じて彼が犯行に至った動機を、第3章ではTikTokの関連動画の分析を通じて「石丸伸二現象」の背景をそれぞれ考察する。 第4章。2024年10月の総選挙前後のTwitter分析を通して、世代間格差の問題を焦点に、「ネオリベラリズムを支持する弱者」という矛盾した層を描き出す。 “そこには従来の見方からすると、二つの意味での顚倒があると言えるだろう。  第一に従来は、高齢者こそが弱者であり、現役世代や若者世代は強者に当たるものと考えられていた。しかし彼らからすれば、「既得権益」の上にあぐらをかいている「既成権力」としての高齢者は、むしろ強者であり、それを支えるために税制や社会保障制度を通じて搾取されている自分たちこそが、実際には弱者だということになる。  第二に従来は、競争政策を支持するのは強者であり、弱者は保護政策を支持するはずだと考えられていた。しかし彼らからすれば、「オールド連合」による保護政策は彼らを保護してくれるものではなく、逆に搾取するものであり、だとすれば誰も保護されることのない自己責任の競争社会のほうが、むしろ安楽だということになる。  こうしたことから彼らは、自らを弱者として認識するとともに、しかしそうした認識にもかかわらず、保護政策を拒否し、競争政策を支持することになる。そこに現れてくるのは、従来的な「弱者のためのリベラリズム」でもなければ「強者のためのネオリベラリズム」でもなく、 「弱者のためのネオリベラリズム」だと言えるだろう。  それはいわば、ジリ貧になっていく社会を彼らが生き延びていくための世界観だ。イノベーションが進まず、生産性が上がらず、それゆえに賃金もなかなか上向かず、一方で税と社会保険料の負担がじわじわと増していくなかを生き延びていくためには、何よりもまず減税が望ましい。また、社会保障も自分たちを保護してくれるものではないのだから、給付全体の削減が望ましく、投資や副業で少しでも収入を増やしていくしかないのだから、金融所得課税の強化などもってのほか、ということになる。彼らが置かれているこうした苦境の中から生まれてき たのが、「弱者のためのネオリベラリズム」だと言えるだろう。” p.100 第5章。積極財政と減税を訴える財務省解体デモに集った人びとを、「失われた30年」に閉じ込められながらも「弱者のためのネオリベラリズム」にも乗れず、労働運動からも市民運動からも取り残された「大きな政府」ポピュリズムを志向する存在であると考察する。 第6章。左派とも右派とも一概にいえない政策を掲げる参政党が、所得分布の中央値に占めるロウアーミドル層(「真ん中」の人びと)の不満を掬いあげ票を集めた現象から、リベラル派が見過ごしてきた問題点を指摘する。 第7章。「曖昧な弱者」が生まれ、かれらが「明白な弱者」に対して敵意を抱く背景を政治と経済の両面からより詳しく論じる。左右の文化的対立を上下の経済的対立(「出口の見える分断」)に置き換えることで、「曖昧な弱者」と「明白な弱者」の両者が救済される対策を講じると同時に経済格差の是正をめざす方法、すなわち、「承認の政治」をより強化し、「再分配の政治」を再構築する道を提言する。 “こうして一九九○年代半ば以降、「承認の政治」のそれまでの遅れを一気に取り戻すかのように、女性や外国人などのマイノリティ、すなわち文化的弱者としての「明白な弱者」への支援が盛んに行われるようになる。  しかし一方でこの時期は、やはり「日本型福祉社会」の崩壊に伴い、経済的弱者としての 「曖昧な弱者」が大量発生した時期でもあった。「再分配の政治」のひずみから生み出された人たち、とりわけ不安定就労者だ。  このように日本では、「再分配の政治」のひずみと「承認の政治」の遅れとが重なったこと で、経済的弱者としての「曖昧な弱者」の発生と、文化的弱者としての「明白な弱者」の救済 という二つの現象がほぼ同時期に起きることになった。  その結果、庇護が突然失われた前者の人たちは、庇護を突然与えられた後者の人たちを羨み、 嫉視することになる。「自分たちは守られないのに、なぜ彼女らだけが守られるのか」という具合だ。” p.173
  • 2026年9月4日
    小説の技巧
    小説の技巧
    小説を書くことになっていて(自分が)、これをすすめられた。 小説の技巧を50のパターンに分類、英米文学からピックアップした例文とともに解説がくわえられる。 「作者の介入」とか「書簡体小説」など形式的なものから、「サスペンス」「ミステリ」といった王道のテクニック、「意識の流れ」「間テクスト性」といった文芸批評でおなじみの概念まで網羅。「表層にとどまる」「エピファニー」「アポリア」などは、たしかにそういう小説ってあるよねとはなるが、名付けられなければ意識できなかったと思う。いままで自分が小説で何を見てきたのか整理された。 小説の構造がわかれば批評的な鑑賞ができ作品を二重三重に楽しめるという意味では書かない人も読んで損はないのでは。
  • 2026年9月2日
    今を生きる思想 ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方
    後期フーコーの権力論と統治論に絞って書かれた入門書。 本格的な議論に入る前にプーサイドに腰かけて水をパチャパチャかけて慣らす感覚で楽しめた。 フーコーのいう権力が自分がいままでイメージしていたものとは違うものであったことは目が開かれる思いだったし、新自由主義では個人は企業としてあつかわれるという話もおもしろかった。 著者の希望が書かれている最後の章はちょっとぼんやりとしていて具体的にどうすればいいのかわからなかった。 以下、まとめ。 第一章。フーコーが描く権力とは上から下への抑圧や禁止ではない。権力とは個々の関係であり、それ自体は良くも悪くもない。主体みずからが従属し規律的にふるまうように促す力のことである。その規律と、生老病死を管理することで「健全な」集団をつくる「生政治」による統治を実現するのがフーコーが呼ぶところの「生権力」である。 第二章。フーコーは規律権力の源流を中世キリスト教修道会の「司牧権力」に求める。他者を導く技術が世俗化し、やがて西洋近代社会の統治の基礎をきずいた。と、ここで、羊を導く牧者としての修道士は自己をも統治する必要があったという話から時代を飛び、ソクラテス・プラトンの「自己への配慮によって真理に到達する生き方」が論じられ、両者が対比される。 第三章。近代国家における君主から臣民までの個人はそれぞれの範囲において自己と他者を統治し、国家の安全を図る。それは司牧権力から遡り論じられた、ポリスにおける統治技術でもあった。フーコーによれば、主体としての国家にとっての真理とは市場であり、特に大戦期以降の新自由主義に着目する。適正な価格(真理)を実現するため、市場における自由な競争を確保するには経済以外の、すなわち社会に対する国家による積極的な介入が求められる。また、新自由主義は、経済人をひとつの企業体としてとらえる。 “二一世紀初頭の日本から見れば、こうした経済人の考え方はなじみ深いかもしれない。 自己責任原則がこれほど浸透した社会では、情報や資源の不平等が意図的に放置されたまま、それぞれひとつの企業体である個人や家庭に「選択」とその結果だけが丸投げされ る。私たちはすべての苦悩の個人的な所有者として、その解決を迫られ、ひとり企業家としてあらゆる能力を高めて生きるよう強いられている。老若男女は「時代の要請」、規制の変更や介入を通じて操作された「環境」のあり方に応じて、みずからの人的資本を高度化することに追われるのである。個人や家庭の「企業」活動には終わりがない。経済人という考え方そのものは古典派経済学から存在するとはいっても、その中身はまったく別物になっているのである。” p.74 第四章。為政者によって導かれる者がみずから生み出すべつの導き、すなわち「対抗導き」とカントの啓蒙概念との組み合わせによって、いまある導きを拒絶し、容易に統治されないオルタナティブな主体の出現を展望して締めくくられる。
  • 2026年9月2日
    フーコー その人その思想
    フーコー その人その思想
    フーコーの友人でもあった歴史学者が間近で見てきたフーコーの横顔を素描し、ときに世間からの誤解を解きながらフーコー思想を軸につづる哲学的エッセイといった趣の本。「文学的」で晦渋な文体で書かれており、フーコーの思想に慣れ親しんでから読み直したとしてもよくわからない気がする。
  • 2026年9月1日
    オリエンタリズム
    オリエンタリズム
    単行本が重かったので後半から文庫に。 作家から政治家、学者、探検家まで西洋のオリエンタリストたちがオリエント(東洋)世界をいかに記述してきたのか、古代ギリシャの時代から歴史に沿って多種多様な文献を引用しながらつづられる。サイードが一貫して批判し続けるオリエンタリズムとは、西洋が東洋とのあいだに境界線を引き、見る側/見られる側という一方的な構図をつくりあげ、他方の声を聞くことなく劣った存在として都合よく描き、19世紀以降の帝国主義と結びついてからは植民地化を正当化する言説となった様式のこと。 他者を特定の属性に基づいて一括りにして類型化すること、対話を放棄して相手の声を奪い非人間化すること、これらはあらゆる差別の背景にある構図であり、『オリエンタリズム』が構造化した問題はけっして過去のものではなく、現在のグローバル社会においてもアクチュアルで身近な問題といえる。海の向こうのパレスチナ問題はもちろんのこと、日本でも特定の国籍・宗教・ジェンダーに対する差別は日常的に見られ、例を挙げればきりがない。9月1日の今日でいえば関東大震災で起きた虐殺事件も帝国主義的精神を内面化した日本人の手によるものだったのではないか。 従来のオリエンタリズムという言葉の意味を変え、西洋社会の態度を告発し、問題提起した原著は、いまや古典であり間違いなく重要な書籍といえるだろう。近所の図書館では書庫行きになってしまっている日本語版だが、いまにつながる歴史を大局的な視点から描ききった本書はまだまだ読み継がれるべきではないかと感じた。 最後に蛇足&重箱の隅だが、サイードも「やっちゃってる」箇所を見つけたのでつついておく。1970年にイギリスで出版された『ケンブリッジ・イスラム史』という書籍をイスラム史として「失敗作」であると批判する文脈でサイードは以下のように述べている。前後の流れを多めに取って引用する。 “中心的なイスラム領土とは北アフリカとアンダルシアを除くものと定義されており、その部分の歴史に関するかぎり、それは過去から現代までの整然たる歩みとなっている。つまり、第一巻では、イスラムとは、専門家の都合の良いように年代順に選択的に適用された地理的呼称なのである。しかし、いわゆる「近現代」の章まで読みすすめてきたとき、我々を待ちうけている失望は、古典イスラムに関する章を読んでいるかぎり、どこからも予測しえないものである。現代アラブ諸国に関する一章などは、この地域の革命的発展をまったく理解せずに執筆されている。筆者は、アラブに対し、女教師的な、あからさまに反動的な態度をとり(「この時期にはアラブ諸国の若者たちは、教育の有無にかかわらず、その情熱と理想主義のために、政治的に利用される温床となり、しばしば無自覚のうちに無法な過激派やアジテーターの道具になっていたといわねばならない」)、レバノンのナショナリズムへの讃美が申しわけのようについていたりする(もっとも、三○年代にファシズムが少数のアラブを夢中にさせ、それがレバノンのマロン派キリスト教徒にも感染して、一九三六年にムッソリーニの黒シャツ党をまねたファランジュ・リバネーズがつくられた事実には一言もふれられていない)。” 下巻p.233 要するに、『ケンブリッジ・イスラム史』の筆者は、オリエンタリズム的な視点から、現代のアラブ諸国で起きた改革的な動きを無視して、アラブ諸国は保守的であり続けたかのように記述しているといっているのだが、「反動的な態度」を形容するために「女教師的な」という余計な言葉を入れている。これが誤訳でなければ、サイードにとって女教師は保守的な存在の代名詞だったということになる。といっても、後世の優越的な立場から不用意な発言をあげつらい、揚げ足を取るのが目的ではない。このように、その時代に支配的な「言説」から自由になることは困難であり、知らず知らずのうちに内面化した偏見を無意識の裂け目からうっかり覗かせてしまうことは誰にでも起こりうるということをいいたかった。
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