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プールに降る雨
プールに降る雨
プールに降る雨
@amewayamanai
  • 2026年7月9日
    アラビアの夜の種族
    聊斎本紀を読みながら千夜一夜形式といえばで思い出した。発売当時、爆笑問題カーボーイで太田さんが激推ししていた。 あまりおぼえていないけど、これから寝るのも忘れるほどおもしろい物語を聞かせますよ、といって最初のハードルの上げかたがすごかった記憶。
  • 2026年7月9日
    聊斎本紀
    聊斎本紀
    第十二回日本翻訳大賞の大賞受賞作。 いくら聊斎志異を下敷きにしてるからってこの内容と分量で初稿を約一年で書き上げるってどうなってるの。豊かなイマジネーションとそれをわかりやすい言葉で表現する力量は圧巻。単に挿話を集めただけではないので最後の章まで読むことがだいじなやつ。 あさっての授賞式前に読了できたけど体調的に行くのがむずかしい泣。配信してくれたら……。
  • 2026年7月4日
    サタンタンゴ
    サタンタンゴ
    まず映画をみるか。
  • 2026年7月2日
    須賀敦子
    須賀敦子
    そういえばタブッキの『供述によるとペレイラは…』の翻訳で須賀敦子にすでにふれていた。 二、三十年前のことでも克明に描写する文章力と記憶力がすさまじい。
  • 2026年6月28日
    他なる映画と 1
    冒頭から映画を見ても寝るし忘れるよねという話をしていて入りやすい。 『演出を探して』でも抱いた感想だけど、自分では思いもよらない、つくり手による視点の数々を取り入れると、ストーリーを追うだけではない見方ができるので、単純に鑑賞中に考えることが増えて退屈することが減っていい。 最後の『東京物語』についての分析は、映画が誕生してたった50年ほどで、小津の到達させていた表現技法におどろかされた。
  • 2026年6月27日
    星の時
    星の時
    内容はまったくおぼえていない。読み返してから映画を見に行こうかな。
  • 2026年6月27日
    ヴィトゲンシュタインの箒
    Amazonの欲しいものリストを見返していたらこの本が入っていた。たぶん誰かが薦めていたのだろう。1999年発行。現在絶版。Amazonでは30,000円という嘘の値段。ピンチョンっぽいポストモダン小説らしい。Twitterに以下の引用部分の画像が載せられていて俄然読みたくなった。図書館の書庫にあるらしい。返却期限のプレッシャーを感じながら読もうかな。 “自殺を試みるいわゆる「精神的に鬱」の人は、「絶望」から、あるいは人生の収支が合わないといった抽象的確信からそうするのではない。そして死が突然魅力的に見えるようになったからでもない。見えない苦悩が耐えられないレベルに達した人の自殺は、燃えている高層ビルにとり残されてしまって最終的に窓から飛び降りる人のそれと同じである。燃えている窓からほんとうに飛び降りてしまうのだ。高所から落ちるという彼らの恐怖は、あなたや私が同じ窓に立って下を見下ろした時に感じる恐怖と同じであり、その怖さが減ずることはない。ここで違うのは別の恐怖、炎の恐怖である。炎がすぐそこまで来たなら、飛び降りて死ぬほうがまだ少しはましなように感じられる。飛び降りるのは、そうしたいからではなく、炎に対する恐怖からだ。下の歩道から「やめろ!」とか「そこにいろ!」と叫ぶ人は、なぜそうするかがわかっていない。飛び降りるのが怖くないわけがない。あなたも逃げる場所がなくて炎が迫ってきたら、それが飛び降りをはるかに超える恐怖だとわかるはずだ。”
  • 2026年6月20日
    トピーカ・スクール
    トピーカ・スクール
    ブクログよりこちらのほうが圧倒的に感想が多くてこのSNSの設計とか雰囲気からすると親和性が高いのはなんかわかる気がする。 著者によって取り扱われるテーマとそれに対する態度なんかは『10:04』でも感じた通りやっぱり新しい世代の人だなという気がする。 内容についてこれこれはこういう意味でと分析するといっぽうでこぼれ落ちるものがあまりに多い気もするしこの独特な文体を感じながら彼ら彼女らの声を響かせながらぐるぐる考えながら読むその時間が大事なんじゃないかという気もする。 気がするばかりで半分も読み取れていない気がする。もっかい読む。
  • 2026年6月19日
    骨を引き上げろ
    骨を引き上げろ
    図書館の新刊コーナーで目を引いた回顧録『私たちが刈り取った男たち』の著者紹介を見ると、本書と『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』で全米図書賞を二度にわたって受賞しているとのことで、みずからの嗅覚をたたえつつまずは小説を読んだのだった。 黒人で、かつ女性の著者によって書かれた小説を読むのははじめてかもしれない。 米国南部の架空の町、ボア・ソバージュを舞台にハリケーン・カトリーナが襲来する前後の十二日間を十代の少女の目を通して描く、ある黒人一家を中心とした物語。 ここで描かれる自然のなかでの生活は2005年の出来事とは思えないほどで、南部といえばでおなじみのフォークナーの時代とあまり変わっていないようにも思える。それは、貧困や人種間の分断、“行政の行き届いてなさ”にもあらわれている。 それゆえにたくましくならざるをえない人びとに向けられる主人公エシュの透徹した視線は、その過酷さもよろこびも、また自身の心の変化も余すことなく語りつくす。 つぎは『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』を読むしかない。 トップラーメン食べたい(と思って調べたら日清の日本未発売の商品で楽天とかで1個1450円で買えるらしい)。
  • 2026年6月18日
    詩学
    詩学
    イザベラ・ハンマード著『見知らぬ人を認識する』のキーとなる概念、「再認」が、この『詩学』からとられていたので読んでみた。 内容はまったく知らなかったが、アリストテレスの作劇教室といった感じだった。 「再認」とは、いってみれば「ごん、お前だったのか」。 もうひとつ、本書に登場する概念である「カタルシス」は、いまや人口に膾炙するワードであるにもかかわらず、アリストテレスがその意味を説明せずに使っているのでのちのちまで解釈がさまざまに分かれたままになっているという。じゃあ、いままで自分が使っていた「カタルシス」って何だったのとなってしまった。 “悲劇とは、真面目な行為の、それも一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣であり、作品ごとに別々の種類の快く響く言葉を用いて、叙述して伝えるのではなく演じる仕方により、[ストーリーが観劇者に生じさせる]憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシス(浄化)をなし遂げるものである。”p.50 「カタルシス」は、悲劇を定義するこの節で突然登場し、その後一度しか使われないという。 本書の半分を占める解説が重要。全体的に読みやすい。
  • 2026年6月10日
    野生の棕櫚
    野生の棕櫚
    感覚器官でとらえられる事象と登場人物の心理をすべて言葉にしようとする執拗な描写はフォークナーらしく、最近読んだボルヘスとは対照的だなあと思っていたら巻末掲載の野谷文昭氏のエッセイに、ボルヘスはフォークナーについて、「感服」すべき作家だとはいっているが、好きではなかったんじゃないのみたいなことが書かれていて、まあそうかもという感じだった。 また、訳者の解説によると、「野生の棕櫚」と「オールド・マン」というふたつの物語が交互に描かれる構成について、フォークナー自身が、「野生の棕櫚」で足りないところを「オールド・マン」で補った、「オールド・マン」は背景的効果があればよく登場人物はそれほど重要ではないと語っているらしく、そんな小説の書き方あるのかよと思った。しかも、研究家がタイプ原稿を調べたらふたつの物語を本当に交互に書いていたらしい。変な人だ。
  • 2026年6月9日
    チョルノービリ・マニュアル
    第十二回日本翻訳大賞の大賞作。 1986年に起きたチョルノービリ原発事故の約30年後を調査したルポルタージュ。 いかにソ連政府が被害を過小評価し隠蔽しようとしてきたか、現地に住む人びとが放射線降下物の危険に晒されてきたかの記録。 そして、それらが現在進行形の問題であることは、言わずもがな日本に住む自分にも無関係ではない。
  • 2026年6月8日
    悪魔情報 ある失踪したネットアイドル捜索スレ
    著者が友人なので。 匿名掲示板の体裁を取り、スレッドを立てた“>>1”の、日常にありうるかもしれない異変から、ネット民の揶揄とアドバイス、ボケとツッコミを経て怪異な現象が展開していく。 ジャンルとしてはホラーとかオカルトに分類されると思うけど、ベースにあるのはギャグで、著者はいかにふざけて人を笑わせるかということしか考えていない。 それにくわえて、軽く読める文体の中にも、著者のパーソナリティに由来する存在そのものの不安から否応がなしに文学性が滲み出る。 こういったジャンル物は馴染みのない人は見向きもしないと思うけど、この人のユーモアセンスは間違いなくトップレベル。
  • 2026年5月27日
    演出をさがして 映画の勉強会
    演出をさがして 映画の勉強会
    友人とBunkamuraル・シネマの濱口竜介特集上映を観に行くことになり、その予習というわけでもないが読み始めたのだった。 いやおもしろかった。濱口、三宅両氏がどのような点に注目しながら映画を観ているのか、作り手側の視点が学べたことによって鑑賞の幅が広がった。視線のイマジナリーラインとか映画とはいかに嘘をつくかとかの話が『親密さ』を観る補助線になって読んでおいてよかった。
  • 2026年5月21日
    伝奇集
    伝奇集
    ビクトル・エリセの『瞳をとじて』のなかに出てくる“トリスト・ル・ロワ(悲しみの王)”という名の屋敷。そこの主人はある短編からその名を取ったという。 その短編が、この『伝奇集』内の「工匠集」の一編として収められている「死とコンパス」。ということで、映画の理解の助けになればと再読。 「死とコンパス」は探偵小説で、真相を突き止めた探偵は作品中最後の舞台となる“トリスト=ル=ロワの別荘”におもむくことになる。 別荘はシンメトリカルで迷宮的な構造をなしており、『瞳をとじて』においても、さも意味ありげに映される二面の神ヤーヌスの像も登場する。 ところが小説内では、“トリスト=ル=ロワの別荘”と書かれるだけで、“トリスト=ル=ロワ”がいったい何なのかは説明されない。 「工匠集」のプロローグには、“トリスト=ル=ロワは、ハーバード・アッシュが幻の百科事典の第十一巻を受け取り、たぶん読まなかったホテルの名前である。”と書かれている。 ハーバード・アッシュとは、本書「八岐の園」の一作品め「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の登場人物。 また、「死とコンパス」には、“マンディエ・モリーナ=ペディアに”との献辞があり、訳注では、“トリスト=ル=ロワという名を思いついたボルヘスの友人で、彼女のベッドルームの壁には、この別荘を描いた地図が貼られていたという。”と説明されている。どっちなんだ。 本書全体がこのように虚構と現実の区別が錯綜し、いまはどの階層で語られているのかと混乱させられる。 しかしむかし読んだときの印象と同じく死ぬほど読みにくい。小説というよりアイデアの簡潔な説明だなと思っていたら、「八岐の園」のプロローグに、“長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて,要約や注釈を差しだすことだ。”とちゃんと書かれていた。(“〇〇は、〇〇は、〇〇である”という変な文章だけど引き写し間違いではない) 個人的に小説に求めているものは、要約から切り捨てられた行間にあるはずの、生き生きとした人物描写やその関係性の変化、機微といった、ながながと展開される“狂気の沙汰”だからなあ。 けっきょく『瞳をとじて』の理解の助けには特にならなかった。
  • 2026年5月21日
    斜め論
    斜め論
    現在の自分の興味関心の方向性や知識の習熟度からいうとあまりはまらなかった感はある。 が、今後、日常で何か不都合が起きたとき、問題を垂直か水平かという空間的認識によって捉えなおすことで、斜めに向かうオルタナティブな解決法を模索できるのではという示唆が得られた。 また、何となく耳にはしていた「当事者研究」や「オープンダイアローグ」というものが何なのかわかってよかった。 それと、ラカン、中井久夫、上野千鶴子、信田さよ子、ガタリ、ハイデガー、フーコーといった面々の、本書で部分的に扱われている議論や語りは、網目状に触手を伸ばす知識のネットワークとして、いつかどこかで繋がっていくのだろうという予感。
  • 2026年5月17日
    レイシズム (思考のフロンティア)
    ツイッターのフォロイーが挙げていた同シリーズの『ジェンダー/セクシュアリティ』が貸出中だったのでまあいいかと思ってやはり興味のある分野であるこちらを借りたのだった。 第1部で人種差別主義とは何かを概説し、第2部でそもそも言語システムに組み込まれているという、差別感情を引き起こす構造を浮き彫りにする。そして第3部ではそれらの概念を踏まえ、発禁処分になったという永井荷風の『悪寒』を読み解く実践編になっている。 短いし読みやすいので入門としてよい。要点をまとめながら再読したことで理解が大変深まった。 第3部のテクスト批評が細かな言い回しも見逃さない精緻な分析がほどこされていておもしろかった。この『悪寒』という小説?エッセイ?は、うっかりすると永井荷風って西洋かぶれのめちゃくちゃ嫌なやつじゃんと読めてしまうのだけど、筆者によると意図的に書かれたのだという。だとしたら永井荷風ってめっちゃすごいじゃんとなる。 ──────────────── Ⅰ 「人種差別主義」とはなにか “人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである。” 『エンサイクロペディア・ウニヴェリサリス』/アルベール・メンミ ・狭義の人種差別主義→生物学的差異に基づく。19世紀後半、帝国主義的植民地支配を正当化。 ・広義の人種差別主義→生物学的差異にかかわらない。 差異を価値づける。(優越性/劣等性) 否定的差異の社会的かつ歴史的一般化と全体化。→個別性を排除、普遍的なものとして実体化。 暴力的に支配する側の、不当に利益を得ているという罪悪感・負い目、および特権を奪われる不安・恐怖。→人種差別主義の論理によって自己正当化・歴史的因果関係に対する思考停止。 異質性嫌悪(ヘテロフォビア)=見慣れぬ他者に対する恐怖。自らの攻撃性を自覚しているがゆえに、他者から攻撃されるのではと不安をおぼえる。 動物の場合、相手が自分より強い→逃亡/弱い→攻撃 ネイティブ・アメリカン、アイヌの人々の神話。 自分たちが命を奪った動物を神格化。罪と他者性(差異)を認めることで共生する。 Ⅱ 言語と差別 人種差別主義の根本にある言語システム。 社会からの排除と囲い込みを可能にする「汚い」「臭い」をキーワードに、フロイトの口唇期・肛門期の理論をもとに人間の言語習得の過程を説明。 「キタナイ!」「クサイ!」とは、 ・社会的な規準、宗教的価値観、性差の文化的規準、排泄行為をめぐる習慣、浄と不浄の空間分類、排除と囲い込みの論理等、社会規範の網の目の役割を果たす。 ・恐怖と不安をもたらし、欲求不満=フラストレーションを引き起こす。また、他者に対する攻撃性を持った言葉。 ルネ・ジラール=赤坂憲雄のスケープゴート理論に対する佐藤裕の差別論。 差別者と共犯者との間で行われる言語コミュニケーションによる同化→被差別者に対する見下しと他者化の構造の維持・再生産。 同化させられてしまった共犯者が自己正当化するために偏見を形成(原因と結果の転倒)。 「われわれ」のカテゴリー化(=同化)をすることで他者化が可能になる。 有徴である排除される側(=客体)と無徴である排除する側(=主体)の非対称性。 〈やってはいけないこと〉を「なぜ」と問うことで〈やってよいこと〉を明らかにする。 否定的な性質・他者性の記号の原因を言語化→肯定的な性質・「われわれ」の記号を明示(=カテゴリー化)。 排除される恐怖から「言語の意味の体系」に同化する。 サイード『オリエンタリズム』 オリエンタリスト=書く人/オリエンタル(東洋人)=書かれる人 異文化として表象する行為=「われわれ」の言語システムのなかで二項対立(紋切り型)の否定項によって対象化。 差別を乗り越えるために、「なぜ」と問い続けることで政治的な力関係の非対称性を言語的・合理的に認識する。 自らが使用する言語システムに常に批判的であること。 Ⅲ 人種差別主義の言説 永井荷風『悪寒』 オリエンタル(東洋人)を自己として描いた典型的なオリエンタリズム的言説。 コロンボからシンガポールへ到着したという地政学的差異によって、それまで欧米列強に同化していた自己が、まさにオリエンタリズムの対象であるオリエンタルであることを自覚させられる。 「キップリング」を思い、「熱帯の美」に酔わされていた「我が心」。 野蛮から文明に至る植民地主義的な少年向け冒険小説(キップリング)。 大衆娯楽によって表象された熱帯をめぐるオリエンタリズム的言説。→欧米列強の欲望。 主人公は近代国民国家である大日本帝国を嫌悪の対象とする。 「ひどい力役の国」の一員であることに気づく。→〈かれら〉と〈われわれ〉という非対称な関係の逆転。 脱亜入欧を果たした〈われわれ〉=読者も東洋の一員であるということ。 甲板で目撃した三人の日本人親子連れ。 大日本帝国のあるべき男性像を肯定的な言葉で描写しながらその価値観を転倒させる。 野蛮と家父長制を体現する母と子。 現地人に向けられた典型的な人種差別主義的嫌悪のまなざしを日本人の母親に対しても同等に向けることで「大日本帝国」の女性差別を浮かび上がらせる。 “欧米列強に伍する「大日本帝国」の一員”として、“フランス語の翻訳語の日本語”で現地人に対するオリエンタリズム的言説を書く。 ↓ “同じ日本人”を対象にして“日本語”でオリエンタリズム的言説を書き続けることでその矢印が自分自身に向かう。 ↓ 言語システムが崩壊し,日本語はもはやフランス語の翻訳語として機能しなくなる。→フランス語が翻訳できない事態に。 自己植民地化を推し進めた国による自己オリエンタル化。 固定化された感情的二項対立(思考停止)をアイロニーによって突き崩す。→人種差別主義に対抗する言語実践。
  • 2026年5月10日
    生物から見た世界
    生物から見た世界
    國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』で出てきていていつか読もうと思っていたのだった。 生物それぞれに環世界というものがあって主観的な感じ方が異なるという話。 生物学の範囲は越えるが、人間どうしでも同じ世界に生きていると思い込んでコミュニケーションに齟齬が生じるケースはままあるなとか、同じ人間でも徒歩と自転車と車では世界の見え方がかんたんに変わるよなと思うなど。
  • 2026年5月2日
    西の魔女が死んだ
    児童文学はほとんど読んでこなかったけど誰かの投稿を見かけて手に取った。 メンター役のおばあちゃんふくめて大人が誰ひとり完璧ではなく、性格も価値観もばらばらで多面的に描かれているのがよかった。 子どものころ読んでいたら表面的なところしか理解できず、学校休んで自然に囲まれた家でジャムとか作っていいなーとしか思わなかった気がする。 最後はそら泣くやろって感じ。 “おばあちゃんはそれをふわりとラベンダーの茂みの上に広げた。 「汚れない?」 「さっき、上から水をかけておいたのできれいです。こうすると、シーツにラベンダーの香りがついて、よく眠れます」”p.83 “「じゃあ、魔女って生きているうちから死ぬ練習をしているようなもの?」 「そうですね。十分に生きるために、死ぬ練習をしているわけですね」”p.118 “まいは声が上ずらないように気をつけた。まだ完全におばあちゃんと和解したわけではないのだから。ああ、こういうことって、なんてわずらわしいのだろう。”p.176
  • 2026年4月30日
    十二神将変
    十二神将変
    ミステリだけど謎解き部分は個人的にはけっこうどうでもよかった。 それよりも文章そのものが手の込んだ細工を凝らした絢爛豪華な工芸品のような趣があってそこに感銘を受けた。 ページを開くとまず旧仮名遣いに面くらい、ルビなしの知らない漢字と聞いたことのない単語に難儀しながらも読み進めるうちに、その言葉が織りなすリズムと世界観に陶然としてくる。 食事や着物、植物、宝石をめぐる描写は美術品を眺めているような気分になるし、これは日本語でしか堪能できない文学体験。 音読すると気持ちよくて3分の1くらいは声に出して読んだ。
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