
amy
@note_1581
2026年9月5日

曖昧な弱者の時代 (岩波新書)
伊藤昌亮
読み終わった
感想
政治系
リベラル
◎「曖昧な弱者」とは何か
タイトルの「曖昧な弱者」とは、どんな存在か。
社会的な「弱者」というと、貧困層や女性、外国人、LGBTQ、障害者、高齢者などのマイノリティを思い浮かべる人が多い。こうした「明白な弱者」に対し、「曖昧な弱者」は「弱さ」が必ずしも自明ではないが、主観的には「自分たちだってつらい」「それなのになぜ守られないのか」と感じている人たちのことだと著者の伊藤氏は定義している。
高齢者だけではないく現役世代もしんどい。女性だけではなく男性もしんどい。外国人だけではなく日本人もしんどい。こうした「弱者」の公認リストに入らない「普通」を自認する人たちが、自分たちの「つらさ」を訴え、「弱者」の仲間入りを求めているのが現在の社会だという。
◎具体例:氷河期世代からバックラッシュまで
伊藤氏はその源流は氷河期世代だと分析している。
ゼロ年代(2000年代)の言論空間にあります。ネットの言説分析を続けるなかで、不遇感や剥奪感を抱えた「曖昧な弱者」が社会全体の方向性を左右する存在になっていると伊藤氏は気づいた。
将来の展望が見えずにいる不遇、就職氷河期の恨みつらみがねじれたかたちで、一部は在特会(在日特権を許さない市民の会)やネット右翼などの主張へと流れ込み、それらが参政党や高市早苗首相への支持につながっているという分析だ。
ジェンダー平等やフェミニズムに対する「バックラッシュ」はジェンダー平等の動きに対して古い権威にしがみつく「強者男性」が反発しているという見方と、古い権威とは縁遠い「弱者男性」が反発しているという見方があったが、残念なことにどちらも正しい。「強者男性」と「弱者男性」が結託するかたちで、バックラッシュが大きな流れになっていた。
◎リベラル・左派への留保
このようなことを示すと、リベラルや左派は外国人よりも日本人を大事に、マイノリティーの「特権」を解体せよ、といった主張を容認していいのかと言ってくる。
当然、そんなことはない。
「曖昧な弱者」の動向に注目しているからといって、過激な主張の「主流化」を追認したり妥協していいわけではない。本来の「主流」は平和や人権を尊重するリベラルな価値観の側にあるべきだと伊藤氏も述べている。
ただ、実際に問題があるけれども現に存在し、大きな影響力を持つに至った「曖昧な弱者」に対処していかないと、数の上ではマジョリティの彼ら彼女らをリベラルの側に取り込むことはできないのだ。
◎2000年代と2026年——反貧困論壇の変化
2000年代では「反貧困」が一定の力を持ち、「格差・貧困論壇」が盛り上がっていた。しかし「敵」がわかりやすかった2000年代と「どう対抗すればいいかが見通しにくく」なった2026年現在。
2000年代と比較にならないほど貧困は深刻化しているし、所得の中央値は下がり続けている。現場に来る当事者は若年化していて、女性も増え、ネットカフェ生活も「当たり前のもの」として定着した感があるが、自己責任論の強さゆえかこの問題はなかなか関心を呼ばないこともまた事実だ。2026年に反貧困の活動が2000年代のように当事者に響くかと言われたら微妙だと思う。
◎参政党の戦術
むしろ参政党の「日本人ファースト」に惹かれる当事者も珍しくなくなった。それらの答えのひとつが、参政党などが発信する「見捨てない」「忘れない」という「承認」のメッセージなのだと思う。自分たちは見捨てられてない、忘れられてないんだという承認やそれを伝えるメッセージを「曖昧な弱者」は求めている。
本書でも指摘されていたように、参政党はまず共感を持てる共感パートと自分たちの主張に近いコアパートわけて有権者に訴えていた。
私は参政党の思想や主張をまったく支持していないし、正直なくなってほしい政党だとすら思うが、この手法だけはうまいと思う。政治によって日々の余裕が削られているなかで、いかに相手を自分たちの主義主張へ惹きつけるかというのは、考えていかなければならない。
伊藤氏はこうした「曖昧な弱者」を取り込むための対立軸の再設定として、階級的連帯への転換を提案している。
◎ 対立軸の再設定——アイデンティティ政治から階級的連帯へ
最近では、人びとのあいだに分断をもたらす「アイデンティティ政治」ではなく、階級的な連帯を重視すべきだという論調が一部で強まっている。
伊藤氏も『曖昧な弱者の時代』の最後でも論じられている、「リベラル派+マイノリティ vs マジョリティ+右派」の対立図式に代えて「アッパーミドル層+富裕層 vs 貧困層+ロワーミドル層」の対立図式にいっていくべきだという主張をしている。
政治という営みにとって、どこで境界線を引くかは死活的に重要になることを踏まえれば、理解できる展開ではある。「マイノリティ」と「マジョリティ」との間に境界線を引いてしまうと、「マイノリティ」の側にほぼ勝ち目はない。
◎リベラル政党はどうすべきか
私はとっとと人権が保障される世の中になってほしいし、そういう考えをもった政党に政治を担ってほしい。だからちゃんと届くやり方を考えてくれよ、と思う。
政策の内容だけではなく、それが誰によって、どのようなメッセージとして受け止められるのかという次元にも目を向ける必要があるように思える。それは現実の政治の側面のみならず、メディアやコミュニケーションを通じて社会的信頼をいかに回復していくのかという課題とも深く結びついている。
理念だけを啓発して票が稼げたら苦労しねえんだ。属性ではマジョリティだったとしても、見捨てられ、置き去りにされている感覚を持つ人たちに届けるべき言葉はなんなのかを真剣に考えてくれ。
この著書のタイトルにあるように、マジョリティながらそういう感覚を持ってしまう人についてどうすればいいかと考えていかなければならない。
ここでリベラルや左派はマイノリティのほうが明らかに見捨てられているし置き去りにされているという主張は出てくると思うし、明白な弱者なのだからそれは否定しない。
それを放置しているから、自民党圧勝なんて結果になる。
◎社会民主主義のリデザインを求めて
いま求められているのは社会民主主義のリデザインであり、そのための利害調整ではないか。それをリベラルや左派が引き受けるべきなのではないかと思う。
ニューヨークのマムダニ市長は大学教員の息子で、裕福な育ちであるが、まさに社会民主主義的な改革を行っており、しかも一部の富裕層が経済の持続性や公正性の観点からそれを支持している人もいる。日本とは環境がかなり異なるという留保は必要だが、希望の持てる光景だ。