
amy
@note_1581
2026年9月5日
ベル・ジャー
シルヴィア・プラス,
小澤身和子
読み終わった
感想
フェミニズム
シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』を1950年代アメリカと現代日本の女性を取り巻く社会状況の比較という観点から読むと、この作品は単なる歴史的な女性差別の記録ではなく、現代日本社会に対してもなお有効な批評性を持つ作品であることがわかる。
1950年代アメリカにおいては、「女性は結婚し、妻や母として生きるべきである」という規範が比較的露骨な形で存在していた。主人公エスター・グリーンウッドは高い知性と才能を持ちながらも、作家として生きる可能性と、社会から期待される伝統的な女性役割との間で葛藤する。その苦しみは、女性が社会的に許容される生き方の狭さによって生み出されたものとして理解できる。
一方、現代日本では法制度上は男女平等が保障され、女性の高等教育や就業の機会も拡大している。そのため表面上は、女性は自由な人生を選択できるようになったように見える。しかし実際には、管理職や企業役員、理工系専門職などにおける男女比の偏り、男女間の賃金格差、女性に集中する非正規雇用、妊娠や出産によるキャリア中断など、多くの構造的な不平等が依然として存在している。また、経済的自立が容易ではない状況のなかで、結婚が女性にとって生活の安定や経済的保障を得るための重要な手段として機能している側面も残っている。
このような状況を踏まえると、『ベル・ジャー』は過去の作品でありながら、現代日本の女性たちの置かれた状況とも重なる部分を持っている。しかし文学批評としてさらに興味深いのは、エスターが生きた1950年代アメリカの方が、ある意味では「敵」が見えやすかったという点である。当時は女性に対する制約や期待が明確であり、「結婚しなさい」「家庭に入りなさい」という社会の要求が可視化されていた。これに対して現代日本では、「女性は自由に生きられる」「自由を選択できる」という理念が広く共有されている。その結果、女性が直面する困難は社会構造の問題ではなく、個人の努力や能力の不足として理解されやすくなっている。
そのため現代の女性は、「自由に選べるはずなのになぜうまくいくかないのか」という形で苦しみを内面化しやすい。賃金格差や昇進格差、出産後のキャリア形成の困難さなど、本来は社会構造に由来する問題が、個人の選択や責任の問題として処理されてしまうのである。この観点から見ると、『ベル・ジャー』の題名にもなっている「ベル・ジャー(ガラスの鐘)」とは、1950年代の性別役割そのものではなく、人々の閉じ込めながらもその存在が見えにくい社会構造の比喩として読むこともできる。
私はいったい何を求めているのか、何を求められているのか。私は、私は、私は…。
出版されるにあたっての副題である〈I am I am I am〉が溺れている最中の必死な息継ぎのようだ。