masaya
@masaya
2026年9月6日
長い旅の途上
星野道夫
読み終わった
きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ。
やっと歩き始めた息子は、まるでこの時期に課せられた仕事であるかのように、転び、落ち、毎日のように頭や身体をぶつけている。何度かヒヤッとさせられたこともあったが、まあ何とか生きのびている。子どものもつ生命力に驚きながら、生と死が隣り合う、あっけないほどの脆さも感じている。その脆さを意識すればするほど、愛おしくなってきてしまうのだ。
が、ベッドから転げ落ち、大きなたんこぶをつくって泣き叫ぶ子どもを前にして、ふと考えたことがある。かわいそうだと思い、できたら自分がかわってあげたいと思いながら、どうやってもこの子の痛みを自分は感じることができないのだ。ぶつかったのは自分ではないのだから、あたりまえのことでもある。しかし、親は我が子の痛みを自分の痛みとして感じるという話があるではないか。いや、身体の痛みと心の痛みは違うということなのか。
それなのに、ぼくは泣き叫ぶ息子を見つめながら、"この子は一人で生きてゆくんだな”とぼんやり考えている。たとえ親であっても、子どもの心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。ただひとつできることは、いつまでも見守ってあげるということだけだ。その限界を知ったとき、なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる。
自分がいた場所を少し移動してみると、今まで見えなかったことが見えてくるものだ。
過去も未来もないただその一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である。過去とか未来とかは、私たちが勝手に作り上げた幻想で、本当はそんな時間など存在しないのかもしれない。そして人間という生きものは、その幻想から悲しいくらい離れることができない。それはきっと、ある種の素晴らしさと、それと同じくらいのつまらなさをも内包しているのだろう。まだ幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしようもなく魅きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ。
きっと、私たちにとって、どちらの時間も必要なのだ。さまざまな過去を悔い、さまざまな明日を思い悩みながら、あわただしい日常に追われてゆく時間もまた、否定することなく大切にしたい。けれども、大人になるにつれ、私たちはもうひとつの時間をあまりに遠い記憶の彼方へ追いやっている。
日々の暮らしのなかで、”今、この瞬間”とは何なのだろう。
人が旅をして、新しい土地の風景を自分のものにするためには、誰かが介在する必要があるのではないだろうか。どれだけ多くの国に出かけても、地球を何周しようと、私たちは世界の広さをそれだけでは感じ得ない。が、誰かと出会い、その人間を好きになった時、風景は、はじめて広がりと深さをもってくる。
人は、めぐる季節で時の流れを知る。心に区切りをつけることができる。
日々の暮らしに追われている時、もうひとつの別の時間が流れている。それを低久の自然と言っても良いだろう。そのことを知ることができたなら、いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、それは生きてゆくうえでひとつの力になるような気がするのだ。
人間にとって、きっとふたつの大切な自然があるのだろう。ひとつは、日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。それは道ばたの草花であったり、近くの川の流れであったりする。そしてもうひとつは、日々の暮らしと関わらない遥か遠い自然である。そこに行く必要はない。が、そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然である。それは僕たちに想像力という豊かさを与えてくれるからだと思う。
夜のない暮らしはすばらしかったけれど、夏の終わりには、人々はもう長い一日に疲れている。夜の暗さが無性に恋しいのだ。季節が秋から冬に移ってゆくにつれ、自然は人々の暮らしにブレーキをかけてゆく。まるで私たちの気持ちをわかってくれていたように。その不思議な心地良さは、子どもの頃、雨の日に家の中
で過ごすうれしさに似ている。
冬は、人と人がゆっくりと話をする季節なのかもしれない。
アラスカのめぐる季節。そしてその半分を占める、冬。だが、この冬があるかわこそ、かすかな春の訪れに感謝し、あふれるような夏の光をしっかり受け止め、つかのまの美しい秋を惜しむことができる。
長く、きびしい冬があるというのはいいことだ。もし冬がなければ、春の訪れや、太陽の沈まぬ夏、そして美しい極北の秋にこれほど感謝することはできないだろう。もし一年中花が咲いているなら、人々はこれほど強い花に対する想いをもてないだろう。
どこにいようと、すべてのものに平等に同じ時が流れている。その事実は、考えてみると、限りなく深遠なことのような気がしてくる。
きっと、同じ春が、すべての者に同じよろこびを与えることはないのだろう。なぜなら、よろこびの大きさとは、それぞれが越した冬にかかっているからだ。冬をしっかり越さないかぎり、春をしっかり感じることはできないからだ。それは、幸福と不幸のあり方にどこか似ている。
多くの選択があったはずなのに、どうして自分は今ここにいるのか。たった一度の一生を、なぜAではなく、Bの道を歩いているのか。誰しも、そんなことを考えずに日々を生きているのに、ふとした一瞬、その不思議さに想いを馳せることはないだろうか。
きっと、私たちには、多くの選択などないのかもしれない。それぞれの人間が、行き着くべきところに、ただ行き着くだけである。
私たちは、二つの時間を持って生きている。カレンダーや時計の針に刻まれる慌ただしい日常と、もう一つは漠然とした生命の時間である。すべてのものに、平等に同じ時が流れていること・・・・・その不思議さが、私たちにもう一つの時間を気付かせ、日々の暮らしにはるかな視点を与えてくれるような気がする。
一つの体験が、その人間の中で熟し、何かを形づくるまでには少し時間が必要だ。
子どものころに見た風景が、ずっと心の中に残ることがある。いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立った時、人の言葉ではなく、いつか見た風景に励まされたり、勇気を与えられたりすることがきっとある。
きっと人間には、二つの大切な自然がある。日々の暮らしの中でかかわる身近な自然、
それは何でもない川や小さな森であったり、風がなでてゆく路傍の草の輝きかもしれない。そしてもう一つは、訪れることのない遠い自然である。ただそこに在るという意識を持てるだけで、私たちに想像力という意かさを与えてくれる。そんな遠い自然の大切さがきっとあるように思う。
私たちが生きていくということは、だれを犠牲にして自分が生き延びるか、という日々の選択である。生命体の本質とは他者を殺して食べることにあるからだ。それは近代社会が忘れていった血のにおいであり、悲しみという言葉に置き換えてもいい。その悲しみをストレートに受け止めなければならないのが狩猟民なのだ。人々は自らが殺した生き物たちの霊を慰め、再び戻ってきて犠牲になってくれることを祈る。
正論に力を持たせるのは大変だ。余裕をもった、ちょっとしたユーモアが、ときに人の心を大きく動かしてゆく。
私は、アラスカとニューヨークがどこかで似ているような気もしていた。それはきっと、どちらもハンパではない世界ということだ。アラスカでは苛酷な自然という世界を相手に、ニューヨークでは混沌とした人間社会の中で、人々は一生懸命に日々を生きている。言い換えれば、それは人間が生きてゆく緊張感というものかもしれない。
私はアラスカが好きだが、ニューヨークも好きだ。
僕はクマに気をつけるが、それほど恐れてはいない。しかし、自然に対して、たかをくくっているのではないかと思う時がある。つまり、本当の恐柿心をもっていないのだ。
フェアバンクスの小さな森の中に、家を建てた。まだ家具も何もない。でも、素晴らしいストーブがある。当分はこれさえあればいい。これがこれからの暮らしのベースになってゆく。