綾鷹 "青天" 2026年7月25日

綾鷹
綾鷹
@ayataka
2026年7月25日
青天
青天
若林正恭
1999年ごろの東京を舞台に、高校のアメフト部で万年2回戦止まりだった主人公の「アリ」こと中村昴が、引退後の葛藤を経て再びアメフトと向き合う青春小説。 アリは引退後、みなが受験に向かうなか、勉強にも気持ちが入らず、不良となる覚悟もないまま宙ぶらりんの日々を過ごす。自分自身の不甲斐なさにもがき続けるなかで、再びアメフトと向き合う姿が描かれる。 強豪校の選手と自分の凡庸さとの差に、打ちのめされる主人公。 「人にぶつかっていないと、自分が生きているかどうかよくわからなくなる」というセリフにも現れているように、再びアメフト部に戻り、努力を重ねることで自分への自信を取り戻していく。 学生時代に何かに打ち込んだ人に響く小説だと思った。 あとは時代的にも読んでいて懐かしくなった。私もリプトンの紙パック飲んでたな〜。 ・荻窪のルミネの屋上から見る空は、恐怖の大王でも降臨すんのかってぐらい紫に染まっていた。 俺はここが好きで、ここには偏差値がいくつとか、スポーツ推薦をもらえるかどうかとか、女とやったことがあるかとか、そういうものが及ばない磁場のようなものが働いている。 ベンチに仰向けになって空を見上げる。タバコの煙が暮れかけの薄紫の空に溶けていく。 きっと大人になっても、ずっとこうやって居心地が悪い場所から逃げて、ほとんどの奴が嫌いで、言い訳しながら今と同じぐらいの成績で生きていくんだろうな。 普通過ぎる。 成績優秀な優等生にはなれなくて、不良の真似事をやってみても、原付に無免で乗るぐらいのチャチなことしかできない。 クラスの一軍の人気者とかじゃなくて、元いじめられっ子の復讐でもない。 すべてが中途半端。語るべきことが何もない。 だから、人にぶつかってないと自分が生きているかどうかよくわからなくなる。 高山に話しかけられて、しばらく止まっていた心臓が、再び動き出したような気がした。 本当に不思議だ。石灰のラインで区切られた領域で、ルールが決められていて、なんならたるルートも指定されているのに、ボールを持った時だけ自由で。 アサイメントは理想像だ。実際はほとんどそうはならない。行き先が決められた中で、ボールを持った瞬間に理想と現実のギャップが目の前に表れて、じゃあ、どう走んのかって、そこに自由が宿るんだ。 カットを切ってかわせば、相手の反射と瞬発力を俺が上回っていて、ヒットしてふっ飛ばされれば俺が弱かっただけ。痛かったり死ぬかもと思ったりするけど、偏差値とか服がイケてるとか女がいるとか、そんなことよりよっぽど納得がいく。 ・「二元論は、そうね、善と悪。男と女、精神と物質みたいに、二つのものが独立して存在していると説くのに対して、易経の陰陽思想はこの白い部分が昼、黒い部分が夜だとして、昼が夜を生んで、夜が昼を生む。そうやって対立せずに調和して、循環しているということなのよね」 「対立せずに・・・・」 まがたま 勾玉のような白と黒の部分を交互に見つめる。 「善と悪も調和して循環してるってことですか?」 「そう・・・・・・ね。この白い部分が善だとすると、黒い小さな点があるわよね?これは善の中にも悪が潜んでいて、黒い部分の中の白い点、悪の中にも小さな善が含まれていて、それは循環して全体ということになるのよ。わかるかしら?」 善過ぎて少し悪を感じる。そんなことがあったかもしれない。その逆も。 「たとえば、怖いということと......勇気とかってものも・・・・同時に存在するってことですか?」「それはいいわね!うん、怖さが勇気を生んで、勇気がまた怖さを生む。で、この小さな黒い点と白い点が重要!怖さは一番太いところで少しの勇気を孕んで、勇気は一番太いところで少しの恐怖を含む」 あー、それはわかる。大きな恐怖に宿る小さな勇気。 ・「言葉では無理ですか?」 ポークライスを口に運びながら、高山が顔を向ける。 「言葉では無理だし、話し合いも意味がない。結果を出してないチームの話し合いなんてマジで意味がない」 目指せ全国大会出場とか、月毎の目標とか、部室の中での誰かの熱い言葉とか、そんなものは中華鍋に酒を入れて一瞬火が上がる時みてえに、次の瞬間には跡形もなく増えてなくなるんだ。 「じゃあ、どうしたらいいっすかね?」俺にそれを言う権利と義務があるだろうか。 義務はあるか。 高山がまた俺に真っ直ぐにぶち当たってきてるんだから、スイムで避けるはねえよな。 逃げちゃダメだ。碇シンジくんだ。 「俺らが強くなるしかないよ」 高山の真っ直ぐな瞳は澄んでいて、同級生がみんな失った可能性ってやつを蓄えていて、俺はそれが眩しくて目を逸らした。 「俺、遼西の奴らにヒットされた時、なんつーか、選手としても、人としても、お前は本当に弱いんだって何度も何度も言われたような気がした。言葉で言われるより全然キツかった」高山の視線を顔半分で感じながら、全部言おうと気合を入れる。 「だから、俺らが強くなって、あいつらにちゃんとお前らは男として弱いんだってアメフトで伝えないと、強くなろうとなんて絶対にしない。言葉だけの世界だったら、いくらでも言い訳できるし、実際、する。弱いから」 オヤジがテレビを見るふりをして多分めっちゃ聞いてる。こういう時にこそ、茶化して和 ませろよ。 「100万語の熱い言葉なんかより、一発ふっ飛ばす方がよっぽどモノを言う」 ・そういえば、悔いを残さないためだけに一人で朝練を始めたんだった。 悔いか。今日勝ったら自分を誇れて、負けたらやっぱ悔いが残るのかな。 最後にリードオプションのコースを走って、最後尾でタックルの構えをする池ノ上学園の Sの幻影を身体をシェイクさせた後で抜き去る。タ、タンッ! ベンチに座ってメットを脱ぐ。10の紙パックのお茶を飲み干して、手で握り潰した。 悔い、残んねぇかもしんねぇな。 今の自分の身体が好きだし。肩用できる。 俺より速くて強いRBはゴロゴロ居るだろうけど、俺より俺の身体を上手く使える奴は絶別にいない。 こんなクソ凡庸な運動神経で、よくここまでがんばったよ。 マジでめっちゃがんばった。 基本、自が持てない俺という塊の大けた部分に、練習の時間と大きくなった筋肉が虫歯の詰め物みてぇに埋められている。 自分のことが好きってこんな感じなのかな。 今まであらゆることで感じたことがなかったけど、これが自言ってやつなんだろうか? 試合の時に役に立つのかな?それともまたただの自己暗示なんだろうか?人生って大変だな。 さてと、行くか。 立ち上がって姿勢を正し、グラウンドに向かって腰を直角に曲げて頭を下げた。 今までそんなことしたことなかったけど、なんでかそうしたかった。 ・きっと中村昂はやってくれる。朝練のために朝早く起きること。筋トレでMAXを更新すること。後輩に言いにくいことを言うこと。そういう自分との約束を果たしてきたから、今日だけはきっとやってくれる。 ・横に腰を下ろしてみたが、掛ける言葉が見つからなかった。萎縮していることは自分が一番わかっているだろう。それを第三者が指摘してしまったら、ドツボにハマってしまう。そのぐらい追い込まれた表情だった。 ドリンクボトルを掴み、喉を潤す。 ちょっと前に、倫理の岩崎に緊張について質問したことがある。 緊張とは外敵に遭遇した人間が、闘争か逃走の二択を脳に迫られている状態だと岩崎は言った。 その回答を聞いて俺が納得できなかったのは、試合で緊張すると身体がガチガチに硬くなって、練習の時のようにプレーができなくなることだ。硬直は闘争と逃走どちらにとってもデメリットなのに、人はなぜ緊張すると身体が動かなくなるのだろうか。 岩崎は「わからないから、ちょっと考えさせて」と言った。大人なのに、わからない時はわからないとちゃんと岩崎は言う。 次の日に職員室を訪ねると、奥の勝手口のようなところに案内されて、そこを出ると校舎裏の植え込みに出た。普段、陽が当たらないからか、ジメッとした雰囲気が漂っている場所だった。こんな場所があることを、この学校に通い始めて6年目で初めて知った。岩崎は白衣のポケットからパーラメントのタバコを一本取り出して、100円ライターで火をつけた。 岩崎がタバコを吸うことも初めて知った。「職員用の喫煙所は先生だらけで息が詰まるのよ」と顔を顰めながら煙を吐いていた。 「先生も先生でしょ」 「まあ、そうなんだけどねぇ」 岩崎は闘争と逃走の二択の他に硬直”があって、動かなくなることで外敵に見つからないでやり過ごすという3つ目の選択肢があるということを教えてくれた。 「昨日、図書室ではじめてそういう文章を読んだんだけど、私も知らなかった。死ぬまで勉強ね」「じゃあ、動いた方が生き延びられるという意識にひっくり返せば、硬直が解けるということなんですかね?」 「そうね。理論上はそうなるわね」 ・「神話なんだけど、シーシュポスっていう人が、神々から大きな岩を山のてっぺんまで転がして運ぶっていう罰を受けるのよ。で、シーシュポスは言われた通り、岩をてっぺんまで運ぶんだけど、運んだ途端、岩がまた平原まで落とされちゃう。勝手に落ちるのかな?とにかく落ちる。でも、シーシュポスはこの不条理な労働を運命だと受け入れて、平原まで下りて行って、またてっぺんまで岩を運ぶのよ。何度も何度も。永遠に。運んでも何もならないのに。なんでだと思う?」 「何もならないのに•••••・」リプトンの紙パックの中身はすでに空だった。 「ここからは私の解釈なんだけど、運命、それを神からの制約だとしましょうよ。あなたがその遼西高校に、絶対に勝てない存在であることが運命だとして、それにあなたの意志で抗うことは、たとえその運命が変わらないとしても、自由を行使するということ。運命は神が作った制約だとしても、なぜか運命に抗うことは神も止めることができない。人間に決定権がある。だったら、その自由を行使するってことが、自由に生きるってことなんじゃないかしら?」 「運んでも何もならないのにですか?」 「運んだら何かになることばかり社会も学校も勧めるわよね。でも、たとえば、大学受験の勉強をしている最中に死んでしまったら、その勉強は無意味だったか?もし、無意味だと言う人がいたら、その人はきっと結果の世界の住人よね?でも、もし、勉強そのものが楽しくて、この際もう楽しくなくてもいいわ、主体的にその人が勉強をするんだと決めてやっていたら、ごめんね、物語の結末を言うわね。その人のことを幸せな人だと思わねばならぬ、とカミュは言うのよ」 なんの前触れもなく、突然、蛇口を捻られたように涙が溢れ出した。 岩崎が節くれだった手で机の上のクリネックスを取って、目の前に差し出す。その所作がとても洗練されていて、岩崎の人生でこういうことが何度かあったんだろうなと思った。 「負けるのはわかっていて、それでもあなたの意志で毎朝タイヤを押しているなら、それを自由と呼ぶんじゃないかしら?自由に生きるってことなんじゃないかしら?」 ティッシュで身をかみ、それを丸めてポケットに突っ込む。 岩崎は窓際で2本目のタバコをふかしていた。無言の時間が流れて、指導室には秒針の音だけが響いていたけど、なんか楽だった。 「先生、運動、だからかもしれないです」 「運動?」岩崎が吸い殻を手に持った灰皿に押し付けながら、曇りガラスの窓を閉める。手に持ったタバコの箱とライターを白衣のポケットに入れて、目の前に座り直す。 「岩を転がして、てっぺんまで上げた時に、筋肉の疲労とか悲鳴から解放される瞬間は一瞬でも喜びがあっただろうし、単純に自分が持っている最大限の力を出すことが気持ちよかったんじゃないかな?って、岩が少しずつ軽く感じるようになることも楽しかったんじゃないかな?って」 「ひぇー、この話って学生時代に何度も議論したんだけど、その意見は初めて聞いた」「神様って、人間に与えた運命に抗われることって、悔しいんですかね?それとも、嬉しいんですかね?」 「・・・・・・痩れる質問ね、あなたね、それ、大学に行って勉強したら?」「神様、昔ついてて欲しいなあ。まぁ、でも、俺は岩を押すのは一人じゃないから」 岩崎は何度も頷いた後、少し寂しそうな顔をした。 「私、あなたの試合観に行く。勝ち負けなんかどうだっていいじゃない。絶対に岩を頂上まで運びなさい」
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