masaya "ラオスにいったい何があるとい..." 2026年9月6日

masaya
@masaya
2026年9月6日
ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集
旅とは? 人生とは? 旅に行きたくなる本 僕は思うのだけれど、たくさんの水を日常的に目にするというのは、人間にとってあるいは大事な意味を持つ行為なのではないだろうか。 不便さは旅行を面倒なものにするが、同時にまたそこにはある種の喜び-まわりくどさがもたらす喜び-も含まれている。 「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」というのが僕の哲学(みたいなもの)である。 多くのヘルシンキ市民は郊外にサマーハウスをもっていて、夏になると長く休暇をとり、都会を離れ、自然の中でのんびりと身体を休める。 湖で泳いだり、トレッキングをしたり、日光浴をしたり、サウナで汗を流したりする。 なにしろ国土の割に人口が少ないので、スペース的にもゆったりしている。 さて、いったい何がラオスにあるというのか?良い質問だ。たぶん。でもそんなことを訊かれても、僕には答えようがない。だって、その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか。 普段(日本で暮らしているとき)僕らはあまりきちんとものを見てはいなかったんだな」ということだ。僕らはもちろん毎日いろんなものを見てはいるんだけど、でもそれは見る必要があるから見ているのであって、本当に見たいから見ているのではないことが多い。電車や車に乗って、次々に巡ってくる景色をただ目で追っているのと同じだ。何かひとつのものをじっくりと眺めたりするには、僕らの生活はあまりに忙しすぎる。本当の自前の目でものを見る(観る)というのがどういうことかさえ、僕らにはだんだんわからなくなってくる。 僕がラオスから持ち帰ったものといえば、ささやかな土産物のほかには、いくつかの光景の記憶だけだ。でもその風景には匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている。そのときの心の震えが思い出せる。それがただの写真とは違うところだ。それらの風景はそこにしかなかったものとして、僕の中に立体として今も残っているし、これから先もけっこう鮮やかに残り続けるだろう。 それらの風景が具体的に何かの役に立つことになるのか、ならないのか、それはまだわからない。結局のところたいした役には立たないまま、ただの思い出として終わってしまうのかもしれない。しかしそもそも、それが旅というものではないか。それが人生というものではないか。 言われてみれば、ラオスにいったい何があるというのだろう?でも実際に行ってみると、ラオスにはラオスにしかないものがあります。当たり前のことですね。旅行とはそういうものです。そこに何があるか前もってわかっていたら、誰もわざわざ手間暇かけて旅行になんて出ません。何度か行ったおことのある場所だって、行くたびに「へえ、こんなものがあったんだ!」という驚きが必ずあります。それが旅行というものです。旅っていいものです。疲れることも、がっかりすることもあるけれど、そこには必ず何かがあります。さあ、あなたも腰を上げてどこかに出かけて下さい。
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