ケイ "海岸通り" 2026年9月6日

ケイ
ケイ
@flyingkei
2026年9月6日
海岸通り
海岸通り
坂崎かおる
読み始め、読み終わった。ので、以下感想はブクログにも格納済。 主人公は、人生に躓いたという感覚と、おそらく世間に対する絶望を抱きつつ、派遣の清掃員として老人ホームで働いている。清掃の仕事は得意だが誇りややりがいを感じているわけではない。生きるために働くだけで、必要以上には働かず、そこにはルーティンとしての帰属感はあっても意味や価値はない。 老人ホームで主人公が個人的に気持ちを寄せているのは、ホーム内の偽のバス停でいつもバスを待っているサトウさんだけである。誰も面会に来ないサトウさんに、主人公は嫁として認識されている。非番の日には娘のふりをしてサトウさんを訪ね、娘のふりをする嫁だと思われながら、娘のふりを続ける。 同僚として新たにウガンダ人のマリアが入ってきたことで、無関心の輪の中で一人の世界を守ってきた(あるいは耐えてきた)主人公の世界に、外界の波が寄せてくるようになる。マリアの素直な感情、素直な言葉、素直な行動に、反発しながらも主人公がゆるやかに孤独の殻を溶かしていく様が、けして綺麗な“物語”ではない生々しさで描かれていて、抗いたい思いも絆される気持ちも共感できる絶妙なトーン。 バスが来ないと言いながらうつらうつらと午後を過ごすサトウさん、誰かを待ち、どこかに帰りたいというぼんやりとした願いと生きる彼女に、娘と思われたい、待っていた人だと思われたい主人公。マリアに「自分を大事に」と欲しかった言葉をもらい、寛容に見える無関心な社会の中で同胞のために働くウガンダ人のアケロを横目で見ながら、それでも今さら前向きにも生きられず自己評価を高めることもできない。 一方で、主人公がサトウさんに寄せる期待も、マリアたちに対する無関心も、主人公が自分自身の行き詰まりと絶望にのみフォーカスしていることの証左であり、そうした狭い視野に主人公が世間からドロップアウトしていった経緯も思わされて、エゴイズムや本人にはどうにもならない特性など、美しくまとまらない生きづらさの問題も考えさせられる。 海を見たいというサトウさんの願いをかなえることで自分が望むカタルシスを得ようとした主人公の企図は実現しない。主人公はこれからも、世間の無関心の輪の中で生きていくしかないのだろう。それでも、組織の身勝手さをマリアの立場で怒ることができた主人公は、望んだカタルシスは得られずとも、他者と繋がり、真の意味で他者に気持ちを向けることへと一歩を踏み出せている。そこには、自分一人の破滅的な願いに突き進む視野の狭さとは異なる、見える世界の輪郭が変わったことで知る諦めと可能性の広がりが確かにある。 生きづらさは何一つ変わらないまま、自分が連れ出したのではないサトウさんと共に、海に向かわない海岸通りのバスに乗る主人公。状況は変わらずとも、あちらに海がある、水平線が見える場所があるのだと心に思えば海に向かわないバスでも行き先に夢を見ることができるように、思うようにならない人生であっても淡く遠い夢、憧れのようなものを持つことだけはできるようになったのだろうか。自分だけの絶望の中で立ち止まり続けるのではなく、遠くとも、道が違っていようとも、憧れを持ってバスに乗り込むことから何かが変われば、と、フルネームすら明かされない、顔の見えない主人公の未来の幸を願いたくなった。
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