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ケイ
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@flyingkei
小説メインに日々読書を楽しんでいます。一冊を読むのに時間がかかるタイプなので、Readsで逐次的な感想を記録して読了後に振り返れたらなと。
  • 2026年11月2日
    二ダースのうずらをめぐって
    III章読了。 食べ物をめぐる文章たち、フランス滞在中のエピソードがどれも印象的。特に、電車が止まってしまって降りた駅で一晩泊めてもらうことになる農家でのオムレツが美味しそう(この話の本筋はそこではないのだけど、それはそれとして)。
  • 2026年11月2日
  • 2026年11月2日
    駄目も目である
    駄目も目である
  • 2026年10月30日
    アクリル
    アクリル
    自分の限界を越えて推し活へとのめり込む人々について語る小説というと『イン・ザ・メガチャーチ』が記憶に新しいが、運営側の視点を盛り込んで一つの需要/供給システムのありようを俯瞰して描いた『イン・ザ〜』に対し、本作は推し活にのめり込んでいく妻をいかに受け入れるかという夫目線で描かれた作品だ。推し活業界のあり方についてではなく、他者を自分の人生の物語のために都合よく消費する身勝手さに目線を据えながら、夫婦とは何か、人生の幸福とは何かというところに重点が置かれている。 自分の人生を世間的な合格ライン、できれば平均より少し上の「幸福」なものとして周りに提示することを望む主人公・卓郎にとっては結婚もその延長線上でしかなく、妻・美幸も「自分の人生の物語」にほどよくはまるパーツとしてそこに組み込まれたと言える存在だ。しかし、卓郎が無精子症であることが判明し、すべてが狂い始める。強く子どもを望んでいた美幸が一気に推し活へとのめり込み始め、家庭でも仕事先でも推しのアクリルスタンドを肌身離さず持ち歩くようになるのである。 卓郎はまずアクスタに反感を抱き、妻に否定的になり、けれど次第に「推し活によって生き生きと輝く妻を寛容に受容する夫」という立場を取ることで、推し活にのめり込む美幸を再び自分の人生の物語に美しくはめることに成功する。そのはまり方は卓郎にとってとても快適で、美幸が推し活のために明らかに常軌を逸した手段で資金を集め始めても、卓郎は「推し活で輝く妻を受容する夫」という立場を守るため違和感に目を向けずやり過ごす。その果てに待っていた大きな落とし穴の中で、それでもなお幸せな家庭の幸せな夫という物語を生きようとする卓郎の不穏な前向きさの中で、本作は終わる。 アクリルの板を見つめて生きる妻を自分の人生の物語のパーツとして愛しむ卓郎の眼差しも、妻をアクリルに挟んで眺めるかのようだ。アクリルの板に閉じ込められた「推し」を見つめ、「何にもなれない」自分を忘れて生の充実感を得ていた美幸は、現実世界で充実感を得られるようになればアクスタのことは忘れる。しかし卓郎は、妻と同じ行程をたどって現実に返ってくることができない。美幸の選んだ道は、美幸の人生の物語の中に卓郎をはめ込むものではあっても、卓郎にとっては卓郎不在の物語としか思えないものだったからだ。 理解ある夫、愛し合う満ち足りた夫婦というセルフイメージを人生のアクスタとして飾ってきた卓郎は、アクリルに挟まれていたはずの現実がどろりと漏れ出して透明な輝きを失っていく様を直視できない、直視しない。美しい物語を頑なに描き続けることで、彼は救われるのか。生身でぶつかり傷つくことこそが、アクリル越しではないリアルな生とそこにしかない充実感を得る道なのではないか。アクリルの中の世界だけを見つめ続ける卓郎と、自分の人生の物語に打ち込む美幸という歪な夫婦の肩越しに、生きろ、傷つけ、という作者の呼びかけが聞こえてくるようだ。
  • 2026年10月29日
    修道院覚書
    修道院覚書
    『ツァラトゥストラ』は物語ではないので、海外小説も同時進行で読めるな…と気づいて着手。 冒頭〜85ページ ポルトガルの宮殿におけるある夜の情景から始まる本作は、国家の中枢から修道院の聖職者、市井の民衆まで様々な立場の者たちを大きく俯瞰するようでもあり個別具体的に解剖するようでもある豊穣な語りによって、賑わう雑踏をかき分けていくかのような印象をもたらしつつ進んでいく。 若きポルトガル国王と念願の子をなした王妃、戦場で左手を失った元兵士・バルタザールと物の内側を見通す不思議な目を持つ女性・ブリムンダ、人力飛行を目指すロウレンソ神父…85ページ時点ではこれから交錯していくであろう物語の主軸を担う者たちが軽く紹介された程度といったところ。タイトルからして冒頭で約された修道院建立は成るのだろうということも予想されるけれど、物語世界の全容はまだまだ霧の中である。 サラマーゴの独特な文体、時間や場所がするりと横滑りして別の場面へ移動していく様や、かぎ括弧なく地の文に会話も混ざっていくスタイルが、即物的でありつつ幻想的でもある独自の世界観とあいまって唯一無二の没入感をもたらす。読んでいて大変楽しい。
  • 2026年10月28日
    リリアンと燃える双子の終わらない夏
    リリアンと燃える双子の終わらない夏
  • 2026年10月28日
    言語の七番目の機能 (創元文芸文庫)
    ローラン・ビネ作品未読だけど、気になってます。『HHhH』かこれか、どちらから読もうか…
  • 2026年10月28日
    名短篇
    堀江氏新刊『二ダースのうずらをめぐって』の中で、本誌(『新潮』100周年記念の別冊)で筒井康隆氏と対談したという記述を見て即購入。筒井康隆氏も大好きな作家だけど、同じく大好きな堀江氏と直接の接点があったとは!! 手元に届いたのでワクワクしながら読みたいと思います。収録されてる短編自体がどれも文字通りの文豪の名作揃いなので、それも楽しみ。
  • 2026年10月28日
    ツァラトゥストラはこう言った(下)
    ツァラトゥストラはこう言った(下)
    「古い石の板と新しい石の板」から第三部終わりまで 「古い石の板…」は、旧約聖書の十戒を念頭に置きつつ聖書における神との契約を破棄するよう語る章である。同時に新約聖書のイエスによる救済も否定し、所詮「善人」を自認する者たちはイエス言うところの「パリサイ人」=偽善者だと説く。 正直なところ、ニーチェ自身の純粋な思想・哲学と言うより対聖書、対キリスト教(教会)の闘いのための言論といった印象が強い。クリスチャンとしてはその過激さに驚くと同時に自省の念も抱く部分はあるが、逆に言えばクリスチャンないしキリスト教社会に生きる者以外にこれらの言葉がどこまで鋭く刺さるのか疑問も感じる。また、これだけ必死にキリスト教社会と戦わざるを得ないニーチェの立場というものに悲哀も感じる。 続く章では、聖書の記述を翻案したような文体で、いよいよ永劫回帰についてその根本認識が語られる。一切の事物は永遠に回帰する、すべての存在が「新しい人生、もしくはより良い人生、もしくは似た人生にもどってくるのではない…永遠に繰り返して、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくる」。おしまいの人間たちと言われる人間たちは無限に繰り返し現れ、ツァラトゥストラは無限に繰り返し人間たちに超人を伝え永劫回帰を説くのである。 ここにその論拠は示されていないが、神は死んでおり、奴隷の生の果てに待つ天国などないという認識がまずあり、この世の始まりと終わりがないのであれば時は永遠であり円環をなすという、ある意味これも聖書とキリスト教社会の否定の結果としてたどりついた思想のように思える。東洋においては、生の繰り返し=輪廻転生(こちらは異なる生を生きて業から解脱するためのものであり、永劫回帰とは全く異なる思想ではあるけれど)思想が身近で、ニーチェの「発見」はそれほど衝撃的ではないが、神による創世がありやがて最後の審判があると信じるキリスト教社会の中では革新的、むしろ異端過ぎて受容されようのない思想だったのではないか。この思想、この書物が想定していた聴衆は一体誰なのか。読めば読むほどニーチェ自身の孤独が浮かび上がってくる気がする。
  • 2026年10月27日
    コンクリート
    コンクリート
    『消去』しか読んだことないベルンハルト、気になる。
  • 2026年10月27日
    有頂天家族 二代目の帰朝
    『有頂天家族』第二部、とうとう読んだ。第二部も、赤い毛で結ばれた狸たちの恋物語の可愛らしさと地獄絵まで登場する毛深き執念の恐ろしさの対比もあれば、次世代天狗(と半天狗)の鋭い脆さと老いたる赤玉先生の貫禄ある大きさの対比もあって、相変わらずのユーモアと愛嬌と因業と哀愁のごった煮ぶりが素晴らしい。 長いこと第一部だけで満足してたけど、ここまで読んでしまうと第三部どうしたって楽しみになってしまう。森見氏は筆が遅いお方というのは重々承知しているので、焦らずにいつまでも待ちます。
  • 2026年10月26日
    二ダースのうずらをめぐって
    II章読了。 書くことについて、または書かれたものから読み解く書き手と受け取り手について。堀江氏の文章によって浮かび上がる鴇田とみ、荒木陽子ら女性たちの像が印象に残る。 プルーストをめぐる文章は、私も今年『失われた時を求めて』読了したところなので特に新鮮に、また共感しながら読めた。円環小説なので再読必須とは思ってて…また読み始めようかなあ。
  • 2026年10月24日
    ツァラトゥストラはこう言った(下)
    ツァラトゥストラはこう言った(下)
    第三部冒頭〜「重力の魔」 山上の洞穴へと帰還する途中、ツァラトゥストラは船上で前向きな心を取り戻す。挑戦する意志、自らの運命を克服する強さを持って、孤独な放浪者として自分自身の道を行くことを決意する。 高みを見極めるために、ツァラトゥストラは深淵を覗き込む。そこで見た「瞬間」の門と小人(重力の魔)との幻影の中で、ツァラトゥストラは、すべての瞬間が「無限(永遠)の未来」と「無限(永遠)の過去」に挟まれた一瞬であるならば、この一瞬はすでに幾度も繰り返されこれからも繰り返され続ける、「永遠に還ってくる」ものなのではないかという恐ろしい真実と向き合う。この時点ではこの思想(永劫回帰)についてはこれ以上深掘りはされない。ただ、続く幻影で、口に入り込み喉に噛みつく蛇をその頭ごと噛みちぎり微笑む超人のビジョンが語られる。 重力の魔は、存在しない神への虚しい信仰、人間を畜群化するくだらない宗教的・社会的モラルの象徴であると同時に、神なきこの世の恐ろしい真実と真剣に向き合わず「投げられた石が必ず落ちるようにお前もどうせ落ちる」とニヒリズムにひたる浅薄さをも象徴している。ニーチェがツァラトゥストラの口を借りて説いているのは、くだらなさにも浅はかさにも迎合せず、自身の内側から湧き出る同情心にも打ち克って、ひたすら上を、高みを目指すべしというとても強く厳しい要求である。この厳しい要求を向けられているのは、当時のヨーロッパ社会の人々、現代に生きる我々、そして誰よりニーチェ自身なのではという印象が拭えない。
  • 2026年10月23日
    愛と幻想のファシズム 上下巻セット
    村上龍さんの訃報に衝撃。 『愛と幻想のファシズム』、大好きで何度も読んで、手元の文庫は私の所持本の中で一番ボロボロになってます(次点でボロボロなのは『失われた時を求めて』ちくま文庫版の第一巻)。 何度も読んだけどまた読まねば。
  • 2026年10月22日
    失われた時のカフェで
    失われた時のカフェで
    堀江敏幸氏の本で紹介されていた一冊。モディアノ氏の作品どれも心惹かれるけど、まずはこの作品から読みたい。
  • 2026年10月22日
    A.O.バルナブース全集(上)
    A.O.バルナブース全集(上)
    堀江敏幸氏のお好きな作家、ヴァレリー・ラルボー。『フェルミナ・マルケス』に行くべきかと思いつつ、入手難しそうなので岩波から出ているこれから読みたい。
  • 2026年10月22日
    二ダースのうずらをめぐって
    Ⅰ章読了。 ヴァレリー・ラルボー、石原吉郎などが横軸になって、音楽や詩、言葉について綴られたエッセイが自然にゆるくつながっていく構成が良い。 堀江氏がずっと大好きなラルボーやモディアノ、さすがにそろそろ読もうかなぁ。
  • 2026年10月21日
    二ダースのうずらをめぐって
    予約していた堀江氏の新刊が届いた! 白水社からコレクション(叢書)刊行続いてるのでどんどん新刊が溜まりますが…『回送電車』シリーズはあちこちに発表した短文をまとめてくれているので、追いかけきれていないお仕事を後追いできるありがたい存在です。 ゆっくり楽しんで読みたいと思います。
    二ダースのうずらをめぐって
  • 2026年10月21日
    岸辺のない海
    岸辺のない海
    なんということ! 読み進めていたのに、乱丁…(続きのページではなくおなじ折丁が二重に綴じられてる) Readsでは情報検索できなかったので河出文庫版で登録したけど、私が読んでいたのは初版(1974年)2ヶ月後に出ている再版本で、かつ図書館本なのに乱丁とは…これまで読んだひと! 図書館に申し出なかったのですか! 50年もー?! ということで、図書館にお知らせしつつ、河出文庫版でリクエストかけて、またいずれ再読することにします。抜けているのは10ページくらいなんだけど、読むならちゃんと読みたいので……またいつか……
  • 2026年10月20日
    ツァラトゥストラはこう言った(上)
    ツァラトゥストラはこう言った(上)
    上巻読了。思ってたより読みにくくなかったし、思ってたよりツッコミどころも多い作品だった…。 第二部 一度山へと戻ったツァラトゥストラは、自身の教えが歪み始めているとの夢の暗示を受け、再び人々のもとへ現れる。 聖職者、道徳家、学者たちを手厳しく批判するツァラトゥストラの語りは、従来の価値観を破壊しようとする「獅子」そのものの鋭さだ。救われる者・義しい者としての立場から、他者を裁きの眼差しによって救われない者・不義なる者と断罪することの不義。他人の不幸に同情することで自らの安寧に感謝する卑しさ。善行も徳行も報いをもとめての商取引でしかないという計算高さ。ツァラトゥストラは、神や道徳はもはや卑小な人間個人の満足のため、自らが支配者へ従属するがごとく他者を支配し従属させる力を持つための道具でしかないと指弾する。 自分自身を超克するためにこそ用いられるべき「力への意志」、精神ではなく身体から湧き出る本当の「おのれ」の意志が、誤った形、誤った方向へ向けられているという糾弾。それは、ニーチェが生きた19世紀末ヨーロッパに実際に蔓延していた、空気化した宗教心に対する強い反発の現れなのだろう。しかし、本質的なキリスト教信仰とは、神の恩寵(赦し)がまずあり、そこへの応答として人間の奉仕があるというものだ。宗教観については、どうしてもニーチェ個人の怨嗟が混ざり思想的には本質からずれたところを攻撃している感もある。 自分自身を超克せよ、そしてツァラトゥストラの教えをも超えて自らの中から新たな価値観を創出せよと語るツァラトゥストラ。「あなた方が私を否定し、私を忘れたとき、私は帰ってくる」と説くその口ぶりは、捕縛直前のイエスの言葉を裏返したものであり、イエスの反転としてのツァラトゥストラのアイデンティティが色濃くにじむ。ただ、ゲッセマネで祈るイエスをよそに弟子たちが居眠りしていたように、ツァラトゥストラも弟子や彼を愛する群衆の中にあって孤独である。孤独の中でなお、人間への愛ゆえに教え続けるツァラトゥストラ、人間のために山上の穏やかな暮らしを捨て「没落」を選ぶツァラトゥストラの姿は、どうしたってイエスと重なる。ただしツァラトゥストラは、弱きもの小さきものの味方とは言えない。彼は、未来の超人のために自らを破滅させるもの、世界を前に進める強い意志を持つもののための救世主なのだ。 ツァラトゥストラは、第二部ラストで、「静かな声」に呼び戻される。「お前の教えは熟しているが、お前自身がその教えを語るまでに熟してはいない」と厳しく告げるその声に、ツァラトゥストラは苦しみ泣き崩れる。告げるべき「真実の教え」が、いかに人間たちにとって厳しいものであるかを知るからこその苦しみ、涙である。自分はまだそうした重荷は背負えないと泣いたツァラトゥストラは、逃げるように再び山へ戻るのであった。
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