

ケイ
@flyingkei
小説メインに日々読書を楽しんでいます。一冊を読むのに時間がかかるタイプなので、Readsで逐次的な感想を記録して読了後に振り返れたらなと。
- 2026年9月17日
- 2026年9月16日
サタンタンゴクラスナホルカイ・ラースロー,早稲田みか読んでる雨が降り続いてる本作を読みながら、ふと目を上げると現実でもどしゃ降りで、作中のすさんだ空気にちょっと引きずられる…。 第一部 第四章〜第六章 どしゃ降りの雨の中、泥濘に沈む打ち棄てられた農村に、死んだと思われていた二人の男が帰ってくる。帰りつつある、雨の中、泥濘の中、前章から引き続き二人の男は村に向かっているのだが、彼らが実際に村に着くのは第一部の最終行だ。 人びとは、ある者は期待と共に、ある者は疑いと共に、またある者は恐れと共に、彼らの到着を待っているが、その裏で哀れな少女が命を絶つにいたる悲惨な出来事が進んでいる。居酒屋に集まり悪魔のタンゴを踊って酔い潰れて眠る大人たち、姿を見せず毎夜巣を張る蜘蛛のような閉塞感・絶望感の中で近視眼的に日々を過ごす彼らと異なり、見捨てられた少女エシュティケは不幸と恐怖に苛まれながらも、どこからか明るい光が差し込む世界の中に生きている。その明るさは発熱時の幻であり一瞬の夢が見せるまやかしの希望でしかないが、天上の天使を信じる純粋さが不幸な少女の世界をほの明るく照らしているのは事実だ。 少女は夢破れても誰を責めることなく、天使の迎えを信じて目を閉じる。悪魔のタンゴは酔い潰れた人びとの寝息の中で哀愁に満ちたメロディーへと変わり、アコーディオンを弾く男は涙を流す。そこへやっと姿を見せた「復活」の二人、彼らは村に何をもたらすのだろうか。 - 2026年9月15日
二月のつぎに七月が堀江敏幸読んでる252〜290ページ 親しい人の死をめぐる記憶。日常を断ち切るように訪れる死、知らぬ間に彼我を分けていた死。大切に取り上げた骨の記憶、埋める人とてなく捨て置かれた骨の記憶。死は当事者にとっては終着点となるが、周囲の人びとにとっては人生の途中で背負うべき痛みであり、場合によっては悔恨である。 判で押したような毎日を送っていた阿見さんは、背骨を痛めたことをきっかけに、いちば食堂以外での人との交流を得る。そもそも、背骨を痛めたきっかけ自体が、阿見さんから声を掛けた子どもたちとの出会いである。そしてまた戻ったいちば食堂で、阿見さんは他の客の会話に耳を傾け、心で同意する。声を出して会話に加わらずとも、阿見さんはすでに、この食堂での人の輪の中に心の内で参加している。 父の遺した文庫本(戦前発行の全八冊の日記文学ということで、ほぼ間違いなくアミエルの『日記』)を開いては抜書きし、回想の中に没入していた阿見さんは、父を経由して読む他人の日記に共感し触発されて沸き起こる記憶の中の人びととのやり取りを重ねるうちに、知らず知らず世界を、視界を広げて、渦を巻くじょうごの中で立ち位置を変え始めているようだ。 - 2026年9月15日
サタンタンゴクラスナホルカイ・ラースロー,早稲田みか読み始めた昨年のノーベル文学賞受賞作家、クラスナホルカイ・ラースローの作品が地元図書館に入ったのでさっそく借り出し。 第一部 第一章〜第三章 ハンガリーの棄て去られた農村。農場が解散されたあともこの地に残る人々は様々な形で暮らしをつないでいるが、絶望と諦念と捨てきれない野心の中にある彼らを描写する文章には時折過去や幻影が入り混じり、雨とともに訪れる暗い秋の朝を背景に浮かび上がるすさんだ情景に思わずおののく。 死んだことになっていた二人の「ごろつき」が村に戻ってきたことで、何がどう変わるのか。立ち尽くす人々の中にくすぶる欲望や自尊心が、彼らの登場でどう刺激されるのか。展開はまったく読めないが、しばしこの泥濘色の世界に入り込んでみよう。 - 2026年9月14日
魔の山 下トーマス・マン,望月市恵,関泰祐読んでる79〜121ページ ハンス・カストルプは、セテムブリーニの同宿人ナフタの激烈な主義主張に耳を傾け、一人の時間にそれを反芻し精神的な「陣取り」遊びにふける。 アナーキスト的に見えたナフタは、実際にはイエズス会士であり、その無政府主義・コミュニスト的な主張はすべて最尖鋭とでも言うべき徹底したキリスト教信仰に基づくものであった。すべての人間が神の子であった原始の状態に戻ること、私有財産と私欲の調整のために契約によって築かれた国家による支配を打ち壊すことを主張し、進歩なる名で呼ばれる私欲拡大の道具である機械工業や金融業の発展を徹底的に拒むその思想は、並ぶ提案自体はコミュニスト的であっても、出発点が人ではなく神、人間の尊厳や権利より神の正義が重んじられている点で共産主義とはまったく質を異にする。 質素な借間を豪奢に飾って暮らすナフタの、神の世界と自然科学的世界、精神と肉体を対立させて説くセテムブリーニ言うところの「淫蕩な」二元論、極端で先鋭的な主張は、カストルプ青年には胡散臭さと同時に力強い魅力も感じさせる。「外見は論理的だが、本質は混沌そのもの」と評されるナフタ、イエズス会士の長老になる直前に病のため療養地へ転地することになったナフタを、カストルプ青年は精神と病の結びつきという実験採択的視点から興味を持って眺め……その結果についてはこの先で、ということだ。一見難解な議論が続くだけの章だが、起きていることはスリリング。 - 2026年9月14日
逃げる田中小鈴キリカ,石川宏千花読み終わった読み始め、読み終わった。クリスマスプレゼント用の選本のためにYAも時々読んでます。 逃げている田中さんも、逃げる田中さんを見かける度に追いかけてしまう曽我くんも、中学一年生。フィクションらしさに満ち満ちた軽快な作品だけど、田中さんが逃げる(あるいは追われる)理由の不可思議さはそのままに、追いかけ追いつき親しくなっていく曽我くんの気持ちの変化がリアルに描かれていて、なんとも言えず好ましい。 相手を自分なりに解釈したり、その言葉や行動を評価したりせずに、ニュートラルにまず受け止めるということ。人間関係を築くにあたってそれはきっととても大切なことで、けれど実際にはなかなかできないことだと思う。だからこそ感じる「 フィクションらしさ」であり、二人以外の人びととの関わりについての描写に物足りなさがあるのも事実だ。それでも、完全に子ども向けの物語というところまで全体を噛み砕きすぎていない物語の中で、そうしたニュートラルな向き合い方ができている二人の、互いに向ける素直な好意がテンポの良い展開の中でキラキラ輝いていて、軽いなりに良い読後感を残す。 - 2026年9月13日
その昔、N市ではマリー・ルイーゼ・カシュニッツ,酒寄進一読み終わった読了。ブクログにも以下感想掲載済み。 「勝手知ったる四面の壁の真ん中で、まぼろしに取り巻かれる」――不安、という感覚。それは必ずしも恐怖とともに訪れるわけではなく、夢想が招き寄せる場合もあるだろう。いずれにしても、「勝手知ったる」現実が、ふとした違和感、驚き、疑い、あるいは高揚、期待によって、見知らぬ異世界に音もなくスライドする。その異変を直視するか、見て見ぬふりをするか。物語の主人公によって選ぶ態度はさまざまだが、自らの選択に対する諦めにも似た受容がどの作品にも漂っていて、やるせなくも妙にリアリティのあるその着地点が印象に残る短編集だった。 個人的には「ロック鳥」の、突然の鳥の訪れは凶事なのか吉事なのか、受け止め方次第でもっと何か変わったのでは、そしてそのことを主人公も気づいていたのでは(だからこそ、「鳥は二度と戻ってこないだろう」というフレーズで終わる)という読後感が、尾を引いて胸に残った。 - 2026年9月12日
- 2026年9月11日
二月のつぎに七月が堀江敏幸読んでる190〜252ページ 夜の工場で、ひそかな音を立てながら殻を弾かせ発芽するもやし。遠い雨の日の、「恋愛のほのかな模倣」の記憶。発芽しなかったと思っている阿見さんの恋心はきっと、その雨の日に実際には殻を弾かせ発芽していたのではないか。ひそかな音が雨音の中に消えてしまっていたとしても。 父親と息子の重なる面影。時代を異にする同窓生同士の間で話題になる同じ教師の逸話。人生も歴史も円環を描き、いつの日か中心の穴に吸い込まれ消えていくとしても、ひとり巡らす思考も他者と手渡し合うことばも、回りながら泡のように心をちりちりと刺激し続ける。同じ場所で回り続けているようで、次第にじょうごの先へ近づいてゆく老いの道のり。暗く狭くなっていくものかもしれないその道のりだからこそ、開いた本から、眺めた景色から、多くの泡が記憶の中から沸き立ち、彼我の境を曖昧にしてゆく。 - 2026年9月11日
ブルックリン・フォリーズポール・オースター,柴田元幸かつて読んだ今日は911。この日が来ると毎年『ブルックリン・フォリーズ』を思う。最後に読んでから5年くらい経った気がするから、そろそろまた読もうかな。 本当に好きな作品なんだけど、だからこそラストの「まだどこも傷ついていない空の下」で「私は幸福だった」というフレーズが胸に刺さって、先取りの痛みがいつまでも消えない。 - 2026年9月11日
羊式型人間模擬機犬怪寅日子読み終わった読み始め、読み終わった。以下の感想はブクログにも投稿済み。 一族の男性は死を前に御羊に変化し、その後屠られて一族に饗される――そんな一族を近くから見守る人間型の機械(アンドロイド)の視点から描かれる、ある当主の御羊化に始まる物語。SFというより幻想小説だけれど、この一族が何なのか、一族以外の人間はどう暮らしているのか、いつの時代のことなのか、どこの国のことなのか、それらは一切説明されない。語り手についても、見た目を含め詳細な仕様は明かされない。けれどそうした語られないディテールが気にならないほど、語り手の美しくも少しほころびのある言葉によって紡がれる濃密で独特な世界の空気に引き込まれる。 浮世離れしているのにそれぞれに色濃い生を生きているこの一族の、閉じているのに果てしがない、積み重ねられてきた歴史。その歴史に寄り添い、有限の生の巡りを見届け続けてきた語り手の胸のうちから溢れる思いは、「人間的」な存在として作られただけあって、非人間でありながらとても人間的。なすべき務めは淡々と果たしながらも、命を慈しみ、一族を愛し、最後は有限の生を持たぬものとして与えられた柵を自らはみ出してゆく。 人は誰しも、少なからず柵と枷の中で生きる。それは性別であり体質であり、生まれ、運命、矜持である。作中で、女性たちはそうした柵や枷に、果敢に挑んでいく。愛ゆえに進んで枷にとらわれる者もいれば、本能が叫ぶままに柵を超えようとする者もいる。一方で、御羊になる定めの男性たちは、それぞれの柵や枷から解き放たれることはない。定めの生の中で時に虚ろな人形となり、抗いは病に負け、御羊となり歴史の一部になっていく。 愛ゆえに柵に挑み枷を乗り越える語り手の衝動は、人間的なのだろうか、それとも非人間的なのだろうか。人間的な非人間として作り出された語り手の、非人間性と人間性のあわいに立つまなざしと行動が、「人間らしさ」とは何かという問いとなって胸に残る。 愛を持つアンドロイドと言うとカズオ・イシグロの「クララとお日さま」を想起するが、この語り手はAF(人工親友)とはまったく違う。語り手は愛をプログラミングされた商品ではなく、一族のためにただそこにいること、一族の歴史の目撃者になることを求められている。その、時の流れの積み重ねが、語り手の中に愛を生んでいる。 御羊解体と大旦那様との往時の思い出が並行して語られる場面は、具体的な言葉としての表現はないけれども、見守り続けてきたいのちへの強い強い愛を感じる圧巻のクライマックスである。同時に、愛するいのちを解体し見送ることのできる存在であることの非人間性、むしろ超人間性が恐ろしくも感じられる場面でもある。 この語り手がいなければ、御羊を饗する儀式は続いてきただろうか。御羊にはならない主人に作り出された語り手は、一族を守るものだったのか、一族を呪うものだったのか。人間性について、愛について、お伽噺めいて静かな非現実感の中から一気に生々しいいのちの現場へと展開する荒々しさに揺さぶられながら、強く心が刺激された作品だった。 - 2026年9月9日
魔の山 下トーマス・マン,望月市恵,関泰祐読み始めた今日から下巻突入。 冒頭〜79ページ 狂乱のワルプルギスの夜から時は流れ、ダヴォスにも遅い春が訪れている。カストルプ青年のベルクホーフでの滞在も丸一年となり、相変わらず従兄ヨーアヒムと日々の療養に努めているが、一方でショーシャ夫人のようにサナトリウムを去る人々もいる。ベルクホーフを去ったうちの一人、セテムブリーニはふもとの街で部屋を借りて暮らし始め、カストルプたちはその同宿人ナフタと知り合う。 人類の進歩と世界平和の絶対的価値を信じ、リベラルかつ愛国心に基づく共和主義者でもあるセテムブリーニに対し、二元論者のナフタは国家を否定し唯一なる神の国の実現を説く一種のアナーキストである。単純無垢な青年の貌で彼らの話を無邪気に聴くカストルプ、彼を教導しようとする二人の「師」。カストルプ青年は二人の言葉をどう受容しどう受け流すか、自身の実験採択をどんな方向へと深めていくのか。思考、思想が語り手の人間性と絡み合いながらカストルプ青年に様々な影響を与えていく。スリリングな下巻のスタート。 - 2026年9月8日
二月のつぎに七月が堀江敏幸読んでる149〜189ページ 阿見さんが思い巡らす珠算塾の大松さんの語りの記憶。戦時中の過酷な経験が、決して具体的な言葉にはならぬまま、語りの背後から時折浮かび上がる。戦地で没した父の遺品の文庫本を読む阿見さんは、本の書き手と父の人生を二重にたどりながら、自分と若き日の父という二人の読み手を自らの中に住まわせている。前景と後景。現実と過去。語られるエピソードと語られぬ情景。今ここにいる読み手と、もうここにはいない読み手。二重写しの世界の中で自分に注がれた物語を、どう人に手渡していくのか、あるいはいかないのか。いちば食堂で丕出子さんと笛田さんが交換する物語の輪の中に、阿見さんは入らない。阿見さんの回想、阿見さんの中の物語は、食堂にはいてもどこまでも個である阿見さんの中だけに漂っている。 - 2026年9月7日
二月のつぎに七月が堀江敏幸読んでる夜にもひととき読書タイムが取れたので。 110〜148ページ 行商にまつわるさまざまなエピソードが、ゆるく章ごとをつなぐ。組織を離れ自らの道を行くひとによって届けられる商品、組織に属しながら現場との関係を滑らかにつなぐ人がするりと差し出す商品。縄張りと縁故のしがらみも、信用と信頼に支えられた邂逅も、互いに人生を背負った人間同士の出会いの形の一つだ。 見えぬ部分、知らない背景に思いを巡らせること。勝手な想像を走らせるのではなく、それぞれに事情があるのだと慮ること。寄り添う、より一歩だけ離れた、思い巡らす、という距離感が、めぐる季節、うつろう街の中で、ゆるい繭のようにいちば食堂の人々を包んでいる。 - 2026年9月7日
魔の山 上トーマス・マン,望月市恵,関泰祐読み終わった上巻読了。ちなみに20年ぶり3回目の再読です。 533〜最終ページ ベルクホーフでのカーニバル(謝肉祭)、魔の山でのワルプルギスの夜。メフィストフェレスの誘いに乗ってマルガレーテと彼女を巡る煩悶のすべてから逃げ出したファウストとは対照的に、カストルプ青年は人文学者にして青年の教師役を自任するセテムブリーニの制止を振り払い、カーニバルの無礼講の中で、かつて憧れた同級生プリビスラウ少年と同じ眼差しを持つショーシャ夫人へ初めて声を掛ける。しかし、ショーシャ夫人は翌日にはベルクホーフを去ることを知り、カストルプ青年が自らの病(発熱)の原因と考える愛は行き場を失う。病んだ肉体への愛、愛の発露としての病に夢中になるあまり、従兄ヨーアヒムやセテムブリーニの病状の深刻さに心動かされる余地すら失っているカストルプ青年だが、その若々しさ、制御できない自己中心性に嫌味な印象はない。とは言え、そこに潜む病む有機体への強い執着、ショーシャ夫人の精神や人となりではなく有機物としてのその肉体に寄せる思慕は、魔の山に入り込んだ単純な青年が身体の変調だけでなく魂にも変調を来たそうとしている危うい兆候である。ショーシャ夫人が去ったベルクホーフで、カストルプ青年の変調がいかなる結末へ向かうか、再読なので知ってはいるけれど改めて楽しみにしたい。 - 2026年9月7日
二月のつぎに七月が堀江敏幸読んでる70〜109ページ いちば食堂を訪れる客が連れに語る床屋の話。丕出子さんが思い起こす父に聞かされた実家での餅つきの話。笛田さんが丕出子さんに語る飲み屋の客に聞いた左官の話。直接語られたのではない、ワンクッション置いて伝わってくるエピソードは、話者に詳細を尋ねたりその後について問うことのできない距離感ゆえに、独特の余韻とともに記憶に残る。又聞きの不確かさに、話者が聞き手としてフォーカスした部分のはっきりした輪郭が混ざり、それらが丕出子さんの中へさらさらと流れこんで、同じトーンのエピソード、同じアルバムの1ページのような色味になっていく。 戦うのでもなく、戦わぬのでもない、笛田さんの「とんがらない」という信条、その切っ先のまるさと、まるくとも切っ先を持って生きるという矜持が、時や環境に流されているようでいて確固たる意思のもとここに在るいちば食堂と、そこに集う人たちによく合う表現だなと思った。 - 2026年9月6日
海岸通り坂崎かおる読み終わった読み始め、読み終わった。ので、以下感想はブクログにも格納済。 主人公は、人生に躓いたという感覚と、おそらく世間に対する絶望を抱きつつ、派遣の清掃員として老人ホームで働いている。清掃の仕事は得意だが誇りややりがいを感じているわけではない。生きるために働くだけで、必要以上には働かず、そこにはルーティンとしての帰属感はあっても意味や価値はない。 老人ホームで主人公が個人的に気持ちを寄せているのは、ホーム内の偽のバス停でいつもバスを待っているサトウさんだけである。誰も面会に来ないサトウさんに、主人公は嫁として認識されている。非番の日には娘のふりをしてサトウさんを訪ね、娘のふりをする嫁だと思われながら、娘のふりを続ける。 同僚として新たにウガンダ人のマリアが入ってきたことで、無関心の輪の中で一人の世界を守ってきた(あるいは耐えてきた)主人公の世界に、外界の波が寄せてくるようになる。マリアの素直な感情、素直な言葉、素直な行動に、反発しながらも主人公がゆるやかに孤独の殻を溶かしていく様が、けして綺麗な“物語”ではない生々しさで描かれていて、抗いたい思いも絆される気持ちも共感できる絶妙なトーン。 バスが来ないと言いながらうつらうつらと午後を過ごすサトウさん、誰かを待ち、どこかに帰りたいというぼんやりとした願いと生きる彼女に、娘と思われたい、待っていた人だと思われたい主人公。マリアに「自分を大事に」と欲しかった言葉をもらい、寛容に見える無関心な社会の中で同胞のために働くウガンダ人のアケロを横目で見ながら、それでも今さら前向きにも生きられず自己評価を高めることもできない。 一方で、主人公がサトウさんに寄せる期待も、マリアたちに対する無関心も、主人公が自分自身の行き詰まりと絶望にのみフォーカスしていることの証左であり、そうした狭い視野に主人公が世間からドロップアウトしていった経緯も思わされて、エゴイズムや本人にはどうにもならない特性など、美しくまとまらない生きづらさの問題も考えさせられる。 海を見たいというサトウさんの願いをかなえることで自分が望むカタルシスを得ようとした主人公の企図は実現しない。主人公はこれからも、世間の無関心の輪の中で生きていくしかないのだろう。それでも、組織の身勝手さをマリアの立場で怒ることができた主人公は、望んだカタルシスは得られずとも、他者と繋がり、真の意味で他者に気持ちを向けることへと一歩を踏み出せている。そこには、自分一人の破滅的な願いに突き進む視野の狭さとは異なる、見える世界の輪郭が変わったことで知る諦めと可能性の広がりが確かにある。 生きづらさは何一つ変わらないまま、自分が連れ出したのではないサトウさんと共に、海に向かわない海岸通りのバスに乗る主人公。状況は変わらずとも、あちらに海がある、水平線が見える場所があるのだと心に思えば海に向かわないバスでも行き先に夢を見ることができるように、思うようにならない人生であっても淡く遠い夢、憧れのようなものを持つことだけはできるようになったのだろうか。自分だけの絶望の中で立ち止まり続けるのではなく、遠くとも、道が違っていようとも、憧れを持ってバスに乗り込むことから何かが変われば、と、フルネームすら明かされない、顔の見えない主人公の未来の幸を願いたくなった。 - 2026年9月5日
羊式型人間模擬機犬怪寅日子読みたい書店にて気になるタイトルの本を見つけて手に取り、帯に好きな作家のコメントが載っていると俄然読む気になりますね。本書、神林長平さんのコメントついていてこれは信じられる!となりました。読むぞ〜 - 2026年9月4日
魔の山 上トーマス・マン,望月市恵,関泰祐読んでる488〜533ページ クリスマスを越え、ベルクホーフでの新年を迎えたカストルプ青年は、食堂や社交の場に降りてくることのできない重病患者たちを見舞うことに熱中する。同情心に対し返される感謝の快さもさることながら、カストルプ青年がこの山へ上がってきた当初から抱いている、病を高貴さ・尊敬と結びつけて定義づけようとする“実験採択”を実行することがこの行動の大本の動機であり、純粋な愛による行動ではない。 しかし、現実はカストルプ青年の期待に沿うものではなかった。病を得ても、死を間近にしてなお、人は俗っぽく愚かしく、単なる一個の人間でしかない。自らの慈善的行動に酔うカストルプ青年のまさに「平凡無垢」な単純さ、それを一歩引いて描写するトマス・マンの筆致の皮肉めいた軽妙さが好対照。 - 2026年9月3日
二月のつぎに七月が堀江敏幸読み始めた発売日に買ったものの忙しく、少し読み始めたところで半年以上放置してしまっていたので、改めて最初から読み直し。 1〜69ページ 物語ではあるけれど、かぎ括弧を使わず句点で会話をつなぐスタイルが、すべての情景を懐かしい思い出のような、アルバムをめくりながら回顧する遠い日のことのような手触りにしている。登場人物たちも、怒りや挫折感、やるせなさといった人間的な感情の起伏はもちろんあるものの、事実上の独白であっても第三人称で語られるそれらの感情は、ガラス一枚隔てて眺めるようなふわりとした距離感があって、生々しく迫ってはこない。けれど、傷は傷としてそこにあり、乾いたかさぶたのような傷をそれぞれに抱えた人たちが、他人同士の優しい距離感を保って、物語の舞台である市場隣接の食堂に集っている。 堀江氏の端正でほんのり温かくどこまでも知的な文章が編み出す物語世界に、日常生活でざわついた心が凪いでいく。
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