
蛾のおどり
@Nachtfaltertanz
2026年9月6日

読み終わった
感性は鏡の役割を果たす、ということです。まわりの人の自分の身体に対する反応が、良くも悪くも自分が何者であるかの理解に大きく影響し、さらには自分のふるまい方を規定するのです。
私のまわりにいる人々は、私が何者であるかを忘れさせてくれません。彼らが私の身体にどう反応するか。そして、どう関わってくるか。ちょっとした表情のこわばりや態度の変化が、鏡のように「私が何者であるか」を跳ね返してきます。
そして、それに応じて、私は身の置き方や立ちふるまいを微調整することになる。忘れたくても、他者が私のアイデンティティを絶えず思い起こさせてきます。
しかもその「他者」が、しばしば自分の返している反応に無自覚であったりする。ある人が自分の身体とどう付き合うかは、多分に、その人のまわりにいる他者の無意識的な反応によって、良くも悪くも共同作業的に作り上げられていくものです。
加えて、この共同作業は必ずしも対等ではありません。見る側に立つことが多い人もいれば、見られる側に立たされることが多い人もいる。場所や状況によっても、どちらに立つかは変わるでしょう。(p.53)
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固有の魅力に気づき、捉えられ、圧倒されるとき、社会において規範的とされる「好ましい/好ましくない」の基準はどこかに吹き飛んでしまう。それはひとことで言えば、「うっとり」するという経験です。うっとりは、日常を覆っている規範的な感性の働きに穴をあけ、対象固有の魅力に奉仕するような例外的な状態を作り出します。
そもそも、個別性に向かうということは、認識能力としての感性特有の性質です。知性であれば、目の前にあるそれを「絵画だ」と判断します。つまり、個別的な対象を、「絵画」という普期的な概念へと回収していく。これが知性の仕事であり、だからこそそれは言語と相性がいい。
他方で感性は、目の前にあるそれを、絵画という普遍的な概念に回収するのではなく、「この絵」ならではの特徴に深く分け入ってそれを捉えようとします。「あの絵」や「その絵」とは違う、「この絵」ならではの特質。もちろん、いわゆる芸術鑑賞には知性も関わりますが、普遍に回収するだけで事足れりとするのは鑑賞ではありません。感性が逸脱的に働くとき、それがもつ「個別性・具体性にこだわる」という性質が全面に発揮されています。(p.135)
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デューイは、端的にこう述べています。
経験の美的ないし受動的(undergoing)な側面は、受け入れる(receptive)ことである。
それは降伏すること(surrender)を意味する。(『経験としての芸術』、50頁)
surrender、つまり「参りました」ということです。自分の基準を当てはめて相手を判断するような優位性は、私の側にはもはやありません。むしろ相手の身体がもつ魅力のほうが、私を圧倒している。相手の身体の魅力が、それに見合った反応を私に求めています。もちろん、それは相手が意図的に私を服従させているとか、見下しているといったことではありません。たいていの場合、それは密かに私の中で起こる心地よい降伏です。
実感としては、美しいものを前にしたときに感じる「眩しさ」は、まさにこの降伏の感覚を表現したものでしょう。古代より、美は光として表現されてきました。
ラベルを超えて迫ってくる力、とでも言えばいいでしょうか。
逸脱的感性が何から逸脱するまさにこうした記号的な理解であり、「わかった気になっている」範囲での対象との出会いです。ラベルを逃れて、相手と出会いなおすこと、そこにこそ逸脱的感性の受動性が開く可能性があります。
(p.145)
