ケイ "羊式型人間模擬機" 2026年9月11日

ケイ
ケイ
@flyingkei
2026年9月11日
羊式型人間模擬機
読み始め、読み終わった。以下の感想はブクログにも投稿済み。 一族の男性は死を前に御羊に変化し、その後屠られて一族に饗される――そんな一族を近くから見守る人間型の機械(アンドロイド)の視点から描かれる、ある当主の御羊化に始まる物語。SFというより幻想小説だけれど、この一族が何なのか、一族以外の人間はどう暮らしているのか、いつの時代のことなのか、どこの国のことなのか、それらは一切説明されない。語り手についても、見た目を含め詳細な仕様は明かされない。けれどそうした語られないディテールが気にならないほど、語り手の美しくも少しほころびのある言葉によって紡がれる濃密で独特な世界の空気に引き込まれる。 浮世離れしているのにそれぞれに色濃い生を生きているこの一族の、閉じているのに果てしがない、積み重ねられてきた歴史。その歴史に寄り添い、有限の生の巡りを見届け続けてきた語り手の胸のうちから溢れる思いは、「人間的」な存在として作られただけあって、非人間でありながらとても人間的。なすべき務めは淡々と果たしながらも、命を慈しみ、一族を愛し、最後は有限の生を持たぬものとして与えられた柵を自らはみ出してゆく。 人は誰しも、少なからず柵と枷の中で生きる。それは性別であり体質であり、生まれ、運命、矜持である。作中で、女性たちはそうした柵や枷に、果敢に挑んでいく。愛ゆえに進んで枷にとらわれる者もいれば、本能が叫ぶままに柵を超えようとする者もいる。一方で、御羊になる定めの男性たちは、それぞれの柵や枷から解き放たれることはない。定めの生の中で時に虚ろな人形となり、抗いは病に負け、御羊となり歴史の一部になっていく。 愛ゆえに柵に挑み枷を乗り越える語り手の衝動は、人間的なのだろうか、それとも非人間的なのだろうか。人間的な非人間として作り出された語り手の、非人間性と人間性のあわいに立つまなざしと行動が、「人間らしさ」とは何かという問いとなって胸に残る。 愛を持つアンドロイドと言うとカズオ・イシグロの「クララとお日さま」を想起するが、この語り手はAF(人工親友)とはまったく違う。語り手は愛をプログラミングされた商品ではなく、一族のためにただそこにいること、一族の歴史の目撃者になることを求められている。その、時の流れの積み重ねが、語り手の中に愛を生んでいる。 御羊解体と大旦那様との往時の思い出が並行して語られる場面は、具体的な言葉としての表現はないけれども、見守り続けてきたいのちへの強い強い愛を感じる圧巻のクライマックスである。同時に、愛するいのちを解体し見送ることのできる存在であることの非人間性、むしろ超人間性が恐ろしくも感じられる場面でもある。 この語り手がいなければ、御羊を饗する儀式は続いてきただろうか。御羊にはならない主人に作り出された語り手は、一族を守るものだったのか、一族を呪うものだったのか。人間性について、愛について、お伽噺めいて静かな非現実感の中から一気に生々しいいのちの現場へと展開する荒々しさに揺さぶられながら、強く心が刺激された作品だった。
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