
ジクロロ
@jirowcrew
2026年9月12日

安野光雅 自分の眼で見て、考える
安野光雅
読んでる
ゴミの分別は別として、「無分別」でいいんです。分けてわかったというのじゃなくて、ほんとうにわかったときは、なにほどかの感動を伴うはずなんです。
(『常識と独創』)
「ほんとうにわかったとき」とは、自分だけに宛てられたメッセージを受けとること。たしかにそこには「なにほどかの感動」があると思う。
それなのにわたしにはわかりもしないこと、
知りもしない不思議について、
語ったことになります。
わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが
今やわたしの眼があなたを見たのです。
それ故にわたしは自分を否定し
塵灰の中で悔改めます。
(『ヨブ記』 第四二章)
ヨブは語れないことを語った。
語ったからこそ、それが「わかりもしないこと、知りもしない不思議」であることがわかった。
ヨブが語ろうとしたことは、語れないからこそ、常に「なにほどかの感動」を伴い続けるものであるのかもしれない。
物乞いの正直さを思えば、
俺の心は痛むのだ。
(『地獄の季節』ランボオ)
このとき、ランボオはメッセージを受け取っているように思える。そのメッセージは彼独自の、ひとつの「季語」とも言えるのではないか。
それをそうと訳した当時の小林秀雄もまた、
「ランボオ」という季語を手に入れたのかもしれない。
自分にできることは、「ゴミの分別」だけであり、
それをやるのは、できるだけ澄んだ心をただ準備するためだけの行為、それだけであるということ。
自分ではなく、他者のそういった姿には、少なくとも「感動」があるように思える。
メッセージが来るか来ないかを気にすることは、
「自分を否定し」きれていない証拠であり、ゴミの分別が不完全であるということ。


