
ジクロロ
@jirowcrew
2026年9月16日
内的体験
ジョルジュ・バタイユ,
江澤健一郎
読んでる
「私」というものは、従順な犬のような卑しさを自分のなかで体現している。「私」が、不条理で不可知な自己(イプセ)であるからではなく、この自己の個別性と理性の普遍性の間にある両義性であるかぎりそうなのだ。「私」は、実際には普遍の表現であり、飼い慣らされた姿を普遍に与えるために、自己の野蛮さを失ってしまうのである。この両義的で従属的な立場ゆえに、われわれは普遍そのものを、野蛮さとは正反対に飼い慣らされた存在として、普遍を表現する者に似た姿で思い浮かべる。「私」は、自己という不合理でもなく、全体者という不合理でもないのであり、この事実は、野蛮さの不在(共通の知性)という愚かさを示しているのである。
241-242
(第四部 刑苦への追伸(あるいは新たな神秘神学))
野蛮さを封じることで表現されるのが「卑しさ」だというのは痛いほどわかる。
「野蛮さの不在(共通の知性)という愚かさ」は、現代風に言えば、「データ至上主義」であり、情報過多に耐えかねてアルゴリズム(統計学)という阿片を服用するような知性を指しているように思える。
今こそバタイユと思わせる一文。『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ)のB面の先取り、来らざるべき絶対世界の詩的解釈。
不条理で不可知であるのに、野蛮さを認めないという悲しき普遍。


