内的体験
18件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年6月11日読んでる私が人間の可能性の果てまで進んで最後の努力をするなら、隠れた臆病さのせいで途中で立ち止まった人々を、私は夜のなかに投げ捨てるのである。 (p.394) 「人間の可能性の果て」に何が待っているのか、おそらくわかっているはずなのに、そこに突っ込んでいくバタイユの狂気というか天才。 バタイユの前に読者は皆臆病であり、夜のなかに置き去りにされる。 かといってバタイユが光であるわけでもない。 このどうしようもなさに人間はただの形容詞。
ジクロロ@jirowcrew2026年6月9日読んでるアリアドーネの糸が切れるときがある。私は虚しい興奮にほかならず、もはや自分が何者なのかも分からずに、飢えて寒けを感じながら渇ききっている。そのようなときに意志に頼るのは意味がない。重要なのは、持続可能な態度への嫌悪、私が語り、書くことができたこと、私を束縛できるものに対する嫌悪だ。つまり私は、自分の誠実さを無味乾燥だと感じている。私をかき乱す矛盾した意思には逃げ道がない。だからこそ、それらの意思は私を満足させてくれる。私は疑う。もはや自分に危裂、無力さ、無意味な動揺しか見出すことができない。自分が腐っていると感じていて、自分が触るものはどれも腐っている。 (p.78) 『蜘蛛の糸』を書いている芥川龍之介がなぜか思い浮かぶ。 「重要なのは、持続可能な態度への嫌悪、私が語り、書くことができたこと、私を束縛できるものに対する嫌悪だ。」 書いているとき、芥川はお釈迦様だった。 糸を切らしたのは、カンダタの我欲ではなく、 そういった人間臭さから距離を置き、 「安全地帯」から眺めながら書いていた 芥川自身の醒めた美意識だった。 「アリアドーネの糸が切れるとき」、 人間という帰り道を不意に見失ったとき。 触れるものすべてが黄金になるのは、 「どれも腐っている」のと変わりはない。

- パンラビ@pan_rabi2026年3月7日読んでる心に残る一節教室の空気学校の教室という空間が苦手だった。 みんなに馴染もうとした努力で辛かったわけではなかった。 『内的体験』の「神」の章を読んで、ゆっくり腑に落ちた。 「神について語るあらゆる可能性が人間から奪われるのは、人間が疲労していて、眠りと平安を渇望する限り、人間の思考において、神は、必然的に人間に適合したものになるからである。」 あの密度の高さ、ヒエラルキー、みんなが枠組みの中で必死になる光景。 とくに中学の教室では、それが空気のように当たり前になっていた。 あの空間全体が、「人間に適合した神」のような秩序だったのかもしれない。 息詰まりの正体が、ようやく言葉になった気がする。
















