内的体験
20件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年6月28日それとは逆の場合。もはや全体者になろうとしないことは、全体を問題化することである。苦しむのをひそかに避けようとして、自分を宇宙全体と混同する人は誰でも、実際のところ自分はけっして死なないと想像するのと同様に、まるで自分が宇宙の全体であるかのようにひとつひとつの物を判断している。われわれは、生を耐え忍ぶのに必要な麻酔薬として、生とともにこの不明瞭な幻想を受け入れている。だが、麻酔中毒から覚めて、自分たちが何者であるのかを知るとき、われわれはどうなるのだろうか。そのときわれわれは、夜のなかで、無駄話からくる光の見かけを憎むほかなく、饒舌家たちの間で途方にくれるのだ。麻酔から覚めた者が告げる苦しみが、この本の対象である。 (序) 「饒舌家たちの間で途方にくれるのだ。」 YouTubeにまみれた翌朝に読み直す序。 画面の中に光はない。 バタイユがYouTubeをやっていたら、 と考えると、不思議とYouTubeを見たくなくなる。 幸いにもバタイユは、本の中にしか生きていない。 麻酔薬はすぐに解ける。そして身体も溶ける。 魔力は容易には解けない。そして身体は溶けない。 よく効く麻酔薬を巡るお遍路、 目的を求めるための「道中革命」なんてない。 "The Revolution Will Not Be Televised" (ジル・スコット・ヘロン) 箱の中身は空っぽであるという種明かし。 光では光をうつせない。エンタメは客体。 「君に夢中」ーー「君」の正体は箱でしかない。 革命はライブ(live)でしか起こらない。 君の正体は箱でしかない。 死んだ空間(デッドスペース)は問題にならない。 だからこそ死んだ空間が生かされる。 建築学の問題。 動画視聴は管理であり、 関連動画の視聴は暴走である。 麻酔薬が効かない身体にはなれない。 生理学の問題。 麻酔薬を避ける頭にはなれる、と信じる。 というお告げをバタイユから授かる。


ジクロロ@jirowcrew2026年6月11日読んでる私が人間の可能性の果てまで進んで最後の努力をするなら、隠れた臆病さのせいで途中で立ち止まった人々を、私は夜のなかに投げ捨てるのである。 (p.394) 「人間の可能性の果て」に何が待っているのか、おそらくわかっているはずなのに、そこに突っ込んでいくバタイユの狂気というか天才。 バタイユの前に読者は皆臆病であり、夜のなかに置き去りにされる。 かといってバタイユが光であるわけでもない。 このどうしようもなさに人間はただの形容詞。
ジクロロ@jirowcrew2026年6月9日読んでるアリアドーネの糸が切れるときがある。私は虚しい興奮にほかならず、もはや自分が何者なのかも分からずに、飢えて寒けを感じながら渇ききっている。そのようなときに意志に頼るのは意味がない。重要なのは、持続可能な態度への嫌悪、私が語り、書くことができたこと、私を束縛できるものに対する嫌悪だ。つまり私は、自分の誠実さを無味乾燥だと感じている。私をかき乱す矛盾した意思には逃げ道がない。だからこそ、それらの意思は私を満足させてくれる。私は疑う。もはや自分に危裂、無力さ、無意味な動揺しか見出すことができない。自分が腐っていると感じていて、自分が触るものはどれも腐っている。 (p.78) 『蜘蛛の糸』を書いている芥川龍之介がなぜか思い浮かぶ。 「重要なのは、持続可能な態度への嫌悪、私が語り、書くことができたこと、私を束縛できるものに対する嫌悪だ。」 書いているとき、芥川はお釈迦様だった。 糸を切らしたのは、カンダタの我欲ではなく、 そういった人間臭さから距離を置き、 「安全地帯」から眺めながら書いていた 芥川自身の醒めた美意識だった。 「アリアドーネの糸が切れるとき」、 人間という帰り道を不意に見失ったとき。 触れるものすべてが黄金になるのは、 「どれも腐っている」のと変わりはない。

- パンラビ@pan_rabi2026年3月7日読んでる心に残る一節教室の空気学校の教室という空間が苦手だった。 みんなに馴染もうとした努力で辛かったわけではなかった。 『内的体験』の「神」の章を読んで、ゆっくり腑に落ちた。 「神について語るあらゆる可能性が人間から奪われるのは、人間が疲労していて、眠りと平安を渇望する限り、人間の思考において、神は、必然的に人間に適合したものになるからである。」 あの密度の高さ、ヒエラルキー、みんなが枠組みの中で必死になる光景。 とくに中学の教室では、それが空気のように当たり前になっていた。 あの空間全体が、「人間に適合した神」のような秩序だったのかもしれない。 息詰まりの正体が、ようやく言葉になった気がする。


















