ケイ "サタンタンゴ" 2026年9月18日

ケイ
ケイ
@flyingkei
2026年9月18日
サタンタンゴ
サタンタンゴ
クラスナホルカイ・ラースロー,
早稲田みか
読み終わりました。思ってたのと全然違うところに着地して驚いた……。 第一部第六章のあと、本作の第二部が始まるが、第二部は第六章から始まり第一章で終わる。時が巻き戻るわけではない。ただ、第一部の第六章と第二部の第六章、第一部の第一章と第二部の第一章、同じ数字の各章は物語の圧、空気、トーンが共通している。滅びを前にどこにも行けない、動けない男と、鐘の音に震えるまだ何も起きていない村の空気。農村とはまったく隔絶された世界である役所の情景。天上から天使が訪れる美しくも恐ろしい幻のような出来事…。 エシュティケの最後の目撃者であり、家の窓から村の様子を細大漏らさず観察し続ける医師は、それでも窓からの景色しか把握できないがために事実上の村の解体にも気づかずにいる。その執拗で虚しい視線は誰にも読まれぬノートのごとく非生産的だが、彼が自身の筆の力を信じることで、物語が輪郭をもって立ち上がる。第二部第一章にたどりついた物語が、再び第一部第一章から語られ始める。 静寂から始まり、策略、期待、狂乱、悲劇と続いた物語の波が、悲劇、狂乱、期待、策略、静寂へとおさまって、また、スタートに戻る。期待と諦め、変化と停滞は円環だ。前進し後退するタンゴのステップのように、払っても払っても知らぬ間にかかる蜘蛛の巣のように、夢は古び、意志は萎え、世界は変わらない。 底知れぬ絶望が感じられる作品だが、それでもこの見捨てられた農村、見捨てられた人びとに、作者のなんとも言えぬ愛の眼差しを感じるのはなぜだろう。友情も愛情も結べずにただ肩寄せ合わせているだけの村民たちは、イリミアーシュの言うがままにバラバラになって去っていく。今いる場所から動けないことを自覚しているフタキを除き、何も約束されないまま、身一つで、あてのない期待だけを持って散っていく。イリミアーシュも隙のないカリスマではない。ペトリナの信仰深い素直さ、夢見るシュミット夫人、みな、視野が狭く愚かしく、けれどその視野の狭さと愚かしさが人間的で、ユーモラスでさえある。 エシュティケがこの世界を捨て去っても、世界は変わらない。嘘の中で生き続ける人間たちの愚かしく虚しく、だからこそ人間的な足踏みが、進んでは戻るそのステップが、遠い世界のことのようでありながら、どうしようもなく共感を呼ぶ。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved