
やん
@grilledyangyang
2023年11月3日
沈黙
遠藤周作
読み終わった
かつて読んだ
また読みたい
信仰と情熱に溢れた若い司祭ロドリゴが、棄教した恩師フェレイラを探して、鎖国下の日本へ潜入する。
前半はロドリゴの一人称で進むので、こちらも彼の熱意に感情移入して読むことになるが、読んでいて微妙な違和感を覚えた。
それは、後半から視点が三人称へ変わると明確になる。感情移入していたロドリコを、外側から客観視させることで、読者はロドリゴ自身が気づいていない、異国や弱者への差別心を意識する構造となっている。
若さゆえの情熱に燃えるロドリゴは、自分が受ける苦難をイエスの受難に重ね合わせていく。物語そのものも福音書の構図を踏まえていて、読者に「この主人公は聖人になるのではないか」と思わせる。
ところが、実はそこに落とし穴がある。
ロドリゴは、自分は信仰のために苦しんでいると思っている。苦難に立ち向かう強さを持っていると思っている。
しかしその一方で、「自分はキチジローとは違う」という優越感を持っている。
弱く、何度も裏切り、何度も告解を求めてくるキチジローを嫌悪する。弱者を救おうとして日本へ来たはずの司祭自身が、弱者を見下し嫌悪する。
そして物語の終盤まで続く、
「ロドリゴ=イエス」
「キチジロー=ユダ」
という構図も、最後には大きく崩れていく。
「強さ」と「弱さ」とは何なのか。自分の弱さを自覚してからが、人生の本番なのかもしれない。
ロドリゴが三度、イエスの声を聞くことも象徴的だった。自分をキリストになぞらえ、殉教者としての自分を夢見ていた頃には、本当の意味でイエスの声を聞くことができなかった。
自分もまた弱い人間なのだと気づいて初めて、弱い者の側に立つイエスの声が聞こえる。
「神が沈黙していた」のではない。ロドリゴの側が、神の声を聞ける状態になっていなかったのだ。
その後、キチジローと生活を共にしながら、隠れキリシタンを保護し、信仰を支えていたことを考えると、ロドリゴは江戸のペテロになったのだ。
一方、井上筑後守との問答は、信仰と外交の問題で決定的に食い違っている。
ロドリゴにとってキリスト教は信仰そのものだが、井上にとっては、海外勢力との結びつきを持つ政治的・社会的な存在でもある。
国に守られた環境で「信仰のために生きる」ことを当然だと思っていた司祭と、国内の秩序や海外勢力との関係を考えながらキリシタンを取り締まる側では、そもそも立っている場所が違う。
ロドリゴから見ると、井上筑後守と通辞役は厭らしく、狡猾な人間として映っている。
しかし、彼らにも彼らの立場と人生がある。特に井上筑後守については、彼自身にも昔は信仰する側だった可能性が提示される。
キチジローが「弱さ」の象徴だとすれば、井上筑後守もまた、別の形で人間の弱さを抱えているのかもしれない。
「日本ではキリスト教が根を張らない」というフェレイラの論については、個人的にはちょっとよく分からない。
宗教の教えがその土地の文化や社会に合わせて変化するのは、日本に限った現象ではないだろうし、キリスト教も世界各地で現地文化と接触したことで、様々な形に変化してきたはず。
まあ、そこは本書の主題ではないのだろう。
『沈黙』というタイトルから連想するのは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうしてお見捨てになられたのですか)」という、いわゆる「神の沈黙」と神の存在証明が真っ先に浮かぶかもしれない。
しかし、個人的には宗教がどうこう、信仰がどうこうというよりも、人間は弱さを知らないとね!というお話だと思いました。(作文?)





